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ギーゼブレヒト伝に現れたレーヴェ(1)

 フランツ・ケルンという文献学者が書いた『ルートヴィヒ・ギーゼブレヒト 詩人・学者・教育者』という伝記を(デジタルで)読んでいる。1875年に刊行されたこの本は、おそらくシュテッティンのギムナジウムでギーゼブレヒト(1792-1873)に教えを受けたケルンが、恩師の事跡を学校生徒たちに伝える目的で書いたものと思われる。古いドイツ文字で印刷されていることを別にすれば、ケルンのドイツ語は極めて読みやすい。ギムナジウム生徒を読者として想定しているからであろう。

 なぜそんな本を読むかといえば、作曲家カール・レーヴェ(1796-1869)について知りたいからである。レーヴェはシュテッティンのギムナジウムで、ギーゼブレヒトと長年にわたって同僚の教師であった。レーヴェの作品ばかりを見るのではなく、身近にいた親しい人物の人生に注目することで、時代背景についても生活の細部についても、新たに見えてくるものがあるのではないかと考えた。その目論見は的中したと言ってよい。

 ギーゼブレヒト伝の記述はまったくの年代順というわけではなく、一応ギーゼブレヒトの家族の歴史や幼少期、学校、大学、解放戦争への参加と語り起こしながら、地域史研究やヘーゲル哲学といったテーマについては、ある程度先回りして物語る形式をとる。ギーゼブレヒトはシュテッティンで、ギムナジウムの同僚の妹アマーリエ・ハッセルバッハと結婚した1820年にレーヴェと出会っているはずだが、本文中にレーヴェが登場するのは、結婚の記述よりよほど後になる。ギーゼブレヒトの詩は作曲されて歌われもしたという話の流れで、

彼の詩を音楽化した作曲家のうちでは、有名なバラード作曲家カール・レーヴェが首位を占める。

Kern[1875: 85]拙訳

と述べられるのが初出となる(ケルンはCarl LoeweではなくKarl Löweと綴る)。続けてレーヴェがギーゼブレヒトより6年遅くシュテッティンに来たこと、ふたりが44年間シュテッティンで暮らしたことが述べられた後で、

最初のうちギーゼブレヒトには、ふたりがお互いそれほど仲良くなれるとは思われなかったものの、

Kern[1875: 85]拙訳

という興味深い記述がある。出会ってすぐに意気投合したわけではないらしい。ふたりを隔てていたものは何か。生まれ育った家庭環境の違いであろうか。4歳の年齢差であろうか。

 そんなふたりが共同で作品を創作するようになった経緯について、ケルンはレーヴェの自伝に依拠しながら述べる。新しいギムナジウムの落成を祝うカンタータを、レーヴェは1832年に作曲していたが、その詩を書いたのはギーゼブレヒト教授であった。レーヴェはギーゼブレヒトの詩才を見抜き、オペラの台本を書いてくれるよう頼んだ。しかしギーゼブレヒトはこれに応じなかった。若き日に劇作を手掛け、これを上演しようとして苦い経験をしたギーゼブレヒトは、詩人と作曲家が劇場のために力を使うべきではないと、レーヴェに諭したという(Loewe[1870: 144-145])。その代わりにギーゼブレヒトが書いたのは、オラトリオ《七人の眠れる聖人》であった。レーヴェによれば、

その構想は簡潔明瞭であり、ディクションは簡明で自然、理念は偉大であり、カトリック的・キリスト教的な信仰に従っており、個々のナンバーの分け方はうまい変化に富んでいる。詩人がすぐに行なったいくつかの変更の後で、作品は作曲のために仕上がり、私は冬のあいだそれに没頭した。

Loewe[1870: 145-146]拙訳

ちなみにギーゼブレヒトは牧師の息子であり、レーヴェはカントルの息子であり、ともにプロテスタントである。ギーゼブレヒトはこの後もギリシャの宗教やユダヤ教やカトリックを題材としたオラトリオを構想するが(構想倒れに終わるものもあるが)、それはヘーゲルの『宗教哲学講義』に影響されたものであると自身で述べている(Kern[1875: 92-93])。1832年はまさにマールハイネケ編集の『宗教哲学講義』が刊行された年であった。ともあれ《七人の眠れる聖人》やその後のオラトリオのことなどについては、稿を改めて報告したい。

※追記 各種文献やウェブサイトでは、レーヴェのシュテッティン着任は1820年ということになっているが、その数字で計算すればケルンの記述と矛盾する。ケルンはレーヴェがシュテッティンに来たのが1822年だと考えているのか?

参考文献
Franz Kern: Ludwig Giesebrecht als Dichter, Gelehrter und Schulmann. Als Anhang: Ferdinand Calos Leben erzählt von Ludwig Giesebrecht. Verlag der Th. von der Rahmer, Stettin, 1875.

Dr. Carl Loewe's Selbstbiographie. Für die Öffentlichkeit bearbeitet von C. H. Bitter. Mit dem Portrait Loewe's und mehreren Musikbeilagen, Verlag von Wilh. Müller, Berlin, 1870