レーヴェの親父のしょぼい副業
作曲家カール・レーヴェ(1796-1869)に関する研究書でヘンリー・ヨアヒム・キューンは、
を課題のひとつとして掲げている。レーヴェの両親の家は、母親の持参金のおかげで割と裕福であったという説から、いや生存さえ危ういほど困窮していたという説まであるという。しかしキューンはその両極端を斥け、
と述べている。母親の持参金については、それが現金ではなく不動産の形をとっていたことに注意を促し、レーヴェ家は裕福ではなかったとする一方で、その貧困は倹約と工夫と勤勉によって乗り切れる程度のものであったとするのがキューンの立場である。
さてレーヴェ家の主な収入は、ルター派プロテスタント教会のカントルであり学校教師であった父親ヨハン・アンドレアス・レーヴェの仕事によってもたらされていたが、プロイセンの田舎町レーベユーンのこととて、その額は少なかったという。年によって変動はあるものの、父レーヴェの年収はおよそ90~120ライヒスターレルとある。町の長者番付に載るような富豪は、600とか800とかいった年収を叩き出していた。これと比較すれば、父レーヴェの薄給であったことがわかる。そこで家計を補うべく、家族で前述のような仕事に勤しんだわけだが、それとは別に父レーヴェは副業を持っていたというのである。
まずは比較的しょぼくない副業を見てみよう。それは町で結婚式や洗礼式や葬式があった際に、音楽を演奏することである。こうした演奏に対する謝礼金の額は、教会や学校での演奏者の位階に応じて法で定められていたから、確実な臨時収入として期待できた。謝礼金の支払いを怠る人がいれば、参事会が動いて強制的に徴収した。キューンは議事録からそのような例を引用している。
かくてローゼは呼び出され、支払わされた。
次には儲からないながらも、父レーヴェが町における音楽の権威であったことを示す副業を見よう。それはオルガニストに志願してきた応募者を鑑定する仕事である。
こうした議事録によって、父レーヴェが町におけるオルガン演奏のナンバーワンであったことが知れると、キューンは記している。しかし応募者の演奏を聴き、後日参事会に出向いて意見を述べることは、かなりの手間であったろう。あまり儲からなかったというから、割に合わない仕事ではある。
極めつけにしょぼいのは、教会の管理責任者である。教会は所有する土地を畑として町民に貸与し、料金を取っていた。父レーヴェのお役目は、そうした畑の滞納金を督促することであったらしい。
辞書にはグロッシェンの語義として「小銭」とか「はした金」とかが載っている。借り主はその金額を滞納し、しかも5年かけて支払ったのだという。キューンが感嘆符を挿入しているのも無理はない。当時のレーベユーンの経済状態をうかがわせる挿話ではないか。もちろんこんな仕事をしても、いくらも儲からなかったであろう。しょぼい副業をも几帳面にこなす父親によって、レーヴェは育てられた。彼のバラードが繰り広げる幻想をたまには離れて、その下部構造をなすところの赤裸々な生活を知るのもよい。
参考文献
Henry Joachim Kühn: Johann Gottfried Carl Loewe. Ein Lesebuch und eine Materialsammlung zu seiner Biographie. Händel-Haus Halle, Halle an der Saale, 1996.