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照月湖の詩と真実(消滅5周年を記念して)

 少佐の未帰還を告げられたヴァイオレット・エヴァーガーデンでさえ、照月湖の消滅を知ったときの私ほどには取り乱さなかった。2019年10月の台風19号が去ってひと月ほど後、私はSNSでそれを知ったのである。湖の近くで暮らす家族から情報はもたらされなかった。その情報が私に与えるであろう衝撃の強さを恐れて、家族は伝えることを控えたのだという。

 当時の私は照月湖を主要な舞台とする長篇小説『明鏡の惑い』の序盤を書いていた。実在した湖畔の観光ホテルはなくなって久しかったが、それでも照月湖は汚い水溜まりとして現に存在しており、そのことが私の支えになっていた。ところがその水溜まりは、台風で堰が切れたために流失してしまった。現実にあって作品の支えとなるものは消えた。以後の私は失われた湖を自作のなかに甦らせるべく、数年の努力を重ねることになる。創作のある段階でフォーレの《レクイエム》を聴いていたとき、たまたま“hodie memoriam facimus”という語句が目に留まった。「今日われわれは記憶を作る」とでも直訳できようか。私はこのラテン語の3語を付箋に記し、ノートパソコンに貼りつけた。まことに『明鏡の惑い』は照月湖へのレクイエムとなった。

 その創作も過去のこととなった今、改めて実在の照月湖に関する事実のいくらかを記してみたい。照月湖とは浅間山北麓の高原にあった人造湖であり、自治体でいえば群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢がその所在地であった。大きさは周囲約1キロ。深さについて詳しいことは知らないが、湖に架かっていた橋から落ちた経験がある。2002年当時170センチほどの身長だった私が、直立の姿勢で頭の先まで水没した。台風で水がなくなった跡地を見れば、それだけの深さがあったことさえ信じられないほどだが、土砂の急激な流入があったのだろうとかの地では言われている。

 湖畔で起こった出来事を、この記事であれこれと数え上げることはしない。その代わり、ひとりの重要人物と照月湖の関係を特記したい。その人物とは、日刊工業新聞の社長だった増田顕邦(ますだあきくに 1904-1965)である。そもそも照月湖は1931年(昭和6年)に楢沢池(ならさわのいけ)として竣工したものである。その池は法政大学村(以下・大学村)という別荘村の敷地内に造られた。村長格の枢密顧問官松室致(まつむろいたす 1852-1931)が、村民の憩いの場となすべく造らせた池である。長野原町の助役からは、もっと大規模な人造湖にという提案があった。しかし観光地化を恐れた松室は、堰堤を築かせて小規模な池とした。静寂を求める別荘民としては、当然の判断であったろう。松室の恐れたその観光地化を、戦後になって推し進めた人物こそ増田顕邦であった。

 増田は日刊工業新聞の社長として工業立国を主唱した。社内にハタラキ党を結成し、24時間働くことを目標に掲げるほどの仕事人間だったと伝えられている。その増田が観光事業にも手を広げたのは、戦後日本の復興を担う仕事人間たちを保養するためである。かくて増田は大学村の土地を大々的に取得した。1950年代の初頭には、大学村は財政難に陥っていた。もとより松室枢密顧問官が私財を擲って運営していた村であったから、彼亡き後に困難を生じたのも当然であろう。増田は熊川と楢沢池のある浅間山北麓を深く愛し、浅間観光株式会社を設立して自ら社長となった。日刊工業新聞の社史の類に「傍系四社」として記された会社のひとつである(試みにすべて挙げれば、新日本印刷・増田建設・浅間観光・新日本機械工業である)。楢沢池が照月湖と改称された経緯については、文献からも聞き取りからも確かなことはわからなかった。しかし松室は観光地化を恐れたのだから、かくも風雅な名をつけるはずがない。やはり増田が観光地向きの名をつけたと考えるのが妥当であろう。

 増田は1965年に亡くなっているから、浅間観光株式会社の社長を務めたのは十数年にすぎない。しかし彼の働きによって、長野原町には貴重な観光資源がもたらされた。照月湖は舟遊びと氷滑りの園となった。湖畔の観光ホテルやオートキャンプ場を訪れる人々は引きも切らなかった。潤ったのは長野原町ばかりではない。今は亡き私の身内のある者は、増田の存命中から浅間観光株式会社で働いていたが、仕事で前橋市の群馬県庁に出向くたび、県の職員から最敬礼で迎えられたと誇らしげに語っていた。照月湖は県のレベルでも、疎かにできない観光資源として認識されていたのである。増田は自社のことのみならず、観光地としての北軽井沢の発展にも心を砕いていた。『長野原町誌』下巻を見れば、増田は1953年(昭和28年)に北軽井沢観光協会の会長になっている。今やかの地で増田の名を語る者は皆無に等しい。忘恩も甚だしいというべきであろう。

 しかし経済的な潤いと同時に、少なからぬ不和の種をも増田がもたらしたことは事実である。静寂を求める大学村の別荘民たちは、ボート場やキャンプ場の騒音について、浅間観光株式会社に苦情を言い続けた。大学村からの有形無形の圧力のなかで、浅間観光株式会社は綱渡りにも似た営業を続けていった。結局は大学村が勝利したのであろうか。浅間観光株式会社は宝島社に売却されて2003年に廃業し、湖畔の関連施設はことごとく破却されたからである。このとき湖そのものも一度干上がったが、どういう経緯でか再び水は貯められた。その後の湖畔には宝島社の施設が置かれた。アラブ馬を飼うための施設である。ために大学村の敷地内は馬糞で汚された。浅間観光株式会社の騒音と宝島社の馬糞では、いったいどちらがよかったのだろう。前者に苦情を言った人々に訊いてみたい。大学村の村民など勝手なものである。あなた方が敵視していた浅間観光株式会社のおかげで、北軽井沢は潤っていたのではありませんか? あなた方が歩いて行ける距離にスーパーマーケットが営業していたのは、その結果だったということがわからないのですか? そんなこともわからないなんて、大した知識人ですね。――しかし嫌みを言うだけ虚しい。あの頃苦情を垂れていた連中はとうに死んだか、あるいは年老いて別荘を棄てた。スーパーマーケットもない荒廃した地域が残されたのみである。

 たしかに増田には禍々しい一面があった。彼は戦時中には軍事工業新聞の主幹となり、軍需産業技術の振興に尽力したのである。増田が軍事機密の深層にまで通じていたことや、航空機「命倍」増産の歌として知られる〈勝利は翼から〉を作らせたことは、『増田顕邦氏を憶う』という出版物に明記されている。

〈勝利は翼から〉

敗戦後は戦犯にされるべきところをなぜかGHQに見逃され、実業界に返り咲いたことも同じく明記されている。そのような戦争屋を、大学村の知識人たちが嫌ったことは理解できる。だが戦前から戦後への連続性はひとつの事実である。増田のような人物の事跡を追うにつけ、1945年革命説などある種の人々の脳内の理屈にすぎないと思える。よいか悪いかは別にして、大日本帝国の遺風を継いだ人々が、戦後日本の復興と発展を支えてきたことは事実なのである。まずはその事実をまるごと受けとめなければならない。しかるに北軽井沢はどうであったか。台風で消えた照月湖の跡地で植物観察会など催している大学村の人々に、私は吐き気を覚える。衰退の一途をたどる地域の荒廃から目を逸らし、「じねんびと」を気取っている開拓農民にも反吐が出る。だから私は『明鏡の惑い』を書き上げた。故郷に平和をもたらすためではなく、火と剣をもたらすために――。

 とはいえ棄てた故郷がどうなろうと構わない。かの地の人々もまた、15歳で障害を負った私を棄てたのだから。この記事の目的は、照月湖の消滅5周年を記念することである。『明鏡の惑い』の余滴として、すでに忘れ去られた事実をいくらかでも記せたなら、それで用は済んだことになる。思えば不思議なもので、照月湖消滅という痛恨事がなければ、私は『明鏡の惑い』61万字を書き通すことができなかったかもしれない。それを書き通して公開したからこそ、次なる作品を執筆する機会を得たわけである。レクイエムなどいっぺん歌えばもうたくさんだ。あとは照月湖にもらった命を生き切るのみである。

(この記事で言及された『明鏡の惑い』はこちら)
https://www.alphapolis.co.jp/novel/703314535/113741973

参考文献


『日刊工業新聞二十年史』日刊工業新聞社 1965年
『増田顕邦氏を憶う』「増田顕邦氏を憶う」刊行委員会編纂・発行 1966年
『日刊工業新聞七十年史』日刊工業新聞社 1985年

『長野原町誌』上巻・下巻 長野原町 1976年

『大学村五十年誌』北軽井沢大学村組合事務所 1980年
『大学村七十年誌』北軽井沢大学村組合事務所 1999年