財布はどこへ行った
■■■■■■■■■■■■
これは、2019年に発行された「SLUT WALK OSAKA ZINE」に掲載された、あかたの原稿です。ZINEは現在売り切れ中ですが、再販の可能性もなくはないとの噂……。執筆陣がすごくて、青山薫さん、上野千鶴子さん、岡田実穂さん、尾崎日菜子さん、要友紀子さん、河本真智子さん、super-KIKIさん、キムミョンファさん、栗田隆子さん、げいまきまきさん、上瀧浩子さん、佐原チハルさん、シモーヌ深雪さん、鈴木千春さん、野中モモさん、畑野とまとさん、Fumina Pansyさん、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさん、堀あきこさん、宮越里子さんです。豪華すぎるやろ……。再販決まったら、またお知らせしますね!
■■■■■■■■■■■■
先日、生まれてはじめて、財布を盗られた。海外での盗難にしては、かなり穏やかな方だろう。気がついたら背負っていたリュックサックの全てのファスナーが全開になっていて、きれいに財布だけなくなっていた。後から考えれば、財布だけでラッキーだった、なんて思えるが、その時は本当にショックで、自分がそんな目にあったことを信じたくもないけど、でもやっぱり何度探しても財布は無くて、震えながら、あまり言葉の通じない警察に行ったり、何枚もあったカードをひとつずつ国際電話で止めたりした。いっしょに居てくれた友だちには本当に世話になった。その友だちは普段からありがたい人で、いつもありがてえな、と思ってはいたが、その時はまた格別ありがたかった。黙っていっしょに居てくれ、警察では英語を書いてくれ、一文無しのわたしに晩飯をおごってくれたのである。神に見えた。
なぜ、ここでこんな話をしているか。それはわたしが、「財布を盗られる」ということを、よく例え話として使っていたからである。痴漢や性犯罪の被害にあった人が言われがちなことのひとつに、「あんたにも落ち度があった」というやつがある。その言説を否定するために、「あのな、財布を盗られた人に対して、『そんなんなあ、あんたが財布なんか持ってるからやで!!だからそんな被害にあうんやんか!ほんま気をつけなあかんで〜!!』っていう人がどこにおる? それと同じやで!財布持ってた人は、なんも悪くないやろ? 財布盗ったやつが悪いに決まってるやろ!!痴漢もおんなじや!」と言うのである。わたしは自分が盗難事件にあうまで、この例え話が我ながら秀逸だと思っていた。財布を盗られた人が財布を持っていたことを責められるなんてありえないから、笑いもとれる。ところが、である。この時、財布を盗られた傷心のわたしに対して、何人かの人が「そんなでっかくて黒い財布なんか持ってるからやん」「リュックなんか背負ってるからや」「ぼーっと歩いてるからやで」などの言葉をくれたのである。本当に驚いた。もちろん悪意のある人なんて、ひとりもいなかった。皆、わたしを心配してくれての、善意からの発言であった。言っていることはわかる。財布のサイズ(一般的な大きさの長財布であったが…)と色と、わたしのぼんやり度についてはともかくとして、海外で人混みを歩くときは、リュックは前に背負うのが常識だと昔、言われたこともあったし、実際にそうする選択肢もあったかもしれない。しかし、それにしても、である。既に財布はわたしの手元から、どなたかの手によって旅立った後で、そのタイミングで、わたしにも責任があった、あるいは、わたしの行動によっては、もしかしたらそんなめにあわずにすんだかもしれない、ということをわたしに教えてくれて、本当に何になるというのだろうか。そう、でも、わかっている。彼らに悪意はないのである。
ところで、わたしは普段、児童自立支援施設という、法に触れてしまった、あるいはそのおそれがある児童を保護・教育する施設(すごくざっくり言えば子ども用少年院)で働いている。なので、その周辺の子どもたちのことを人に話す仕事をもらうことがある。そんな時は、まず社会状況の悪化を憂い、その中で犯罪や触法に走らざるを得なかった人の背景を語り、「悪いことをした人は悪い人か?」という問いを立て、「世の中に“悪い人”なんてほとんど居ないとわたしは思いますよ。ただ、悪いことをしてしまった/させられた人がいるだけ」みたいなことを言ってまとめるのが、いつものやりかたである。今回、自分が盗難にあい、それを警察に届けたあたりから、そのことについてずっと考えていた。普段自分が言っていることと、いざ自分が「被害者」になってみて考えることの、その温度差について。「被害者」の立場からでも「悪い人などいない」と断言できるのか、もしできたとして、それはかつての自身の台詞と、響き(自分の中で/他者の中で)が違うのか。そして、そんなことをぐずぐずと考えながら次の日、わたしは、いっしょに旅行をしていた人たち全員に、精一杯おもしろおかしく、財布を盗られたんです、と語ってまわった。自分におきたことを、みんなと笑いたかった。自分のことなら、何の遠慮もなくネタにできる。話しながら、ほとんど無意識に、盛り上がる方向に話し方を選んでいく。そしてわたしは、「まあ、ぼーっと歩いてたあたしも悪かったんですけどね!!」「リュックってマジで前に背負わないとダメだったんですね!ほんと勉強になったわ!!」と言った。みんなは笑ってくれて、財布の盗難は笑い話になった。うれしかったし、ホッとした。そしてその日、なんとなく、わたしはお金を持たなかった。ホテルに置いてあった鞄の底には日本円も少しはあったから、すぐにだって両替できたし、きっと友だちに、お金貸してよ、って言えば、すぐに貸してくれたけど、わたしはそれを言わなかった。お金を持つ気がしなかった。それで1日過ごして、不便だしそろそろ持つか、と思って、鞄の底の日本円を両替して、それを手にして街に出た途端、ものすごく街が輝いて見えた。この輝きを忘れないようにしよう、と思った。お金がないということは、自分の手の中に選択肢がないということで、それは見ている風景があからさまにくすむということなんだ、と。
そして、今も考える。なぜわたしはあの時、「自分も悪かった」みたいな話し方をしたのか。「わたしさえ気をつけたら、今後このような酷いことは自分の身にはおこらない」と思いたかった、というのは、ある。そんな祈りのような「わたしも悪かったんです」という言葉。でも、その言葉をわたしが何度も口にすることで、次に財布を盗られる人になにか影響したりしないんだろうか。自分自身には? わからない。わたしは、「わたしも悪かった」と言いたかった。でも、わたしは悪くない、と、今も思う。だってさ、やっぱり人の財布盗っちゃいけないよ。盗らないでよ。でもさ、例えば、すっごくおなかがすいてたらさ、それで、どうしようもなくて、そこに、ちょっとぼーっとした人が、でっかい財布持って歩いてきて、目の前で果物とかさ、無邪気に買ってたら、ああ、あの財布ほしいなあ、自分のだったらいいだろうなあ、って思うかもねえ。「ねえ、ちょっとそのお金わけてよ。めっちゃおなかすいてるんだよ」って言ったら、わけてくれるかな、って思ってくれるには、どうすれば? でも、それ言われたとしたら、あたしどうしただろう。いくらかあげたり、できただろうか。わからない。お金ってなんだろう。社会って。格差って。所有って。
そして、今日もわたしは言う。「あなたは悪くないんだよ」と。なにかの被害にあった人に、「あなたが○○だったからだよ」って言うなんて、本当に馬鹿げてる。それが性被害ならなおさら、卑劣ですらある。あなたが、わたしが、どんな格好をしていたとしても、それはわたしたちがどんな目にあってもいいという理由になんて、なるわけがない。わたしたちは、自分の好きな格好をして、ここに存在する。してもいい。そして、それを言いながら、何故自分はあの時、と、考えている。でもさ、あなたは悪くないんだよ、ほんとに。