安王丸と春王丸の辞世 戦国百人一首96
安王丸(1429-1441)と春王丸(1431-1441)は、父親が自害したあと捕らえられ、京への護送途中に殺害された兄弟だ。
父は第4代関東公方足利持氏(1398-1439)で、亡くなった際の足利安王丸は13歳、足利春王丸は11歳。
1441年のことである。
まだ元服前の兄弟たちが何に巻き込まれていったのか、その経緯から説明しよう。
室町幕府の4代将軍は足利義持だった。
そのあとを継いで5代将軍となった息子の足利義量だったが、彼は早世した。残された父親の義持は、そのあと義量の代わりとなる後継者を立てることなく亡くなってしまった。
続く室町幕府の6代将軍は、なんとくじ引きで決められたという。
石清水八幡宮で候補者となる人の名を書いたくじに当たり、6代将軍に選ばれた人物とは、青蓮院の門主(格式の高い寺院の住職)だった義円である。くじは八百長だったとの説もあるが、形式上は義円は「ご神託」に従って還俗し、将軍足利義教となった。
だが、将軍の決定に不満を持つ者もいた。
4代鎌倉公方の足利持氏である。鎌倉公方とは、室町幕府に従属する機関として関東を統治する鎌倉府の長官のことだ。
彼は将軍足利義持の猶子(実子ではないが親子関係を結んでいる子)であったので、かねがね将軍職を狙っていた。
将軍になれなかった足利持氏は、ことあるごとに新しい将軍の義教に反抗する姿勢を見せた。だが、その度に鎌倉公方の補佐役だった関東管領上杉憲実が、鎌倉幕府と鎌倉府との間で仲裁役をはたしていたのである。しかし、持氏の反抗が続くと、やがて持氏と憲実との間は険悪になっていった。
そして1437年、ついに憲実が関東管領を辞めてしまった。
同時期に、鎌倉幕府の中で将軍の義教と対立していた斯波義淳も管領職を辞したこともあり、将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏の対立は誰も止める者がいないままエスカレートしていったのである。
1438年、持氏が上杉憲実に軍を差し向けた。
すると将軍義教は憲実を援護するための軍勢を派遣し、持氏軍の討伐に成功したのである。1439年、持氏は鎌倉の永安寺で長男の義久とともに自刃。
永享の乱と呼ばれたその戦は持氏側の敗北で終結。
そして、関東では関東管領の上杉氏が実権を握ることとなった。
永享の乱後の状況については当時から情報が錯綜していて不明確な部分も少なくない。というわけで異論もあるが、負けた持氏の次男の安王丸は、弟の春王丸とともに、お付きの者たちともにまずは日光山に落ち延びたというのが定説だ。そしてかねてより室町幕府に不満を持つ結城氏朝を頼って下総の結城城(茨城県結城市)に逃れたのである。
そして1440年、結城氏朝は持氏の遺児である安王丸と春王丸を擁して幕府に反旗を翻した。ところが、関東管領の上杉氏に攻められ、結城城は1441年に落城してしまった。
春王丸と安王丸兄弟は捕らえられた。彼らは反逆者足利持氏の息子たちであり、彼ら自身も反逆者であったので、京へ護送されることとなった。
ところが、京をめざしていた13歳と11歳の少年は、突然垂井(岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺において斬首されたのである。
将軍義教の命令だったと言われる。
先に紹介した2つの辞世は、殺害される際のものだと考えられる。
彼らが残した言葉「身の行衛」。
翻弄される身の上の不安な気持ちをそのまま言葉にした。
だが状況と辞世の内容から考えれば、この句は死の直前に作られたもののはずであり、彼らもさすがに自分の「身の行衛」について察していたはずである。すぐそばまで確実な死が迫っていたことを。
これらの辞世は、それでも足利家に生まれた男児として悲鳴を噛み殺して残した精一杯の言葉といえようか。
彼らの首は京都へ運ばれ、首実検のあと再び寺に戻されて埋葬されたという。
金蓮寺旧境内の片隅には、3基の宝篋印塔がある。大きいものが乳母の、そして小ぶりで同程度の大きさの2つの塔が兄弟のものである。
寺の本堂には悲劇の兄弟の木像も安置されている。
こうして、鎌倉公方家は一時断絶したのである。
だが、その断絶の期間はそう長くはない。
実は、春王丸と安王丸の弟で、2人の兄が殺されたときにはまだ4歳だった永寿王丸(または万寿王丸)が生き残っていた。彼はのちに足利成氏(1434-1497)となり、鎌倉公方に就任したうえで長きにわたる戦いとなった享徳の乱(1454-1477/82)を引き起こしている。
1455年には関東管領だった上杉憲忠を討った。
憲忠こそ、父親である足利持氏の仇の上杉憲実の息子だ。
安王丸と春王丸は弟の活躍を喜んだだろうか。