三好実休の辞世 戦国百人一首93
室町幕府第34代管領細川晴元に仕えた、三好元長の次男として誕生したのが三好実休(1526か27-1562)である。実休は法名。その前は之虎と呼ばれていた。三好義賢としても知られるが、史料上では名として確定されていない。三好家は阿波国(徳島県)を本拠とした。
草枯らす霜又今朝の日に消えて
報のほどは終にのがれず
草を枯らす霜も今朝の陽の光に消えてしまう
最後まで報いから逃れきることなどできはしないのだ
辞世では、まるで自分は逃れることのできない「報い」を受けて死ぬのだと言いたげだ。それは「何の報い」なのか。
実は、実休には心当たりがあった。
彼の父親元長は、室町幕府第34代管領細川晴元の重臣であった。
その父親が主君に見限られて自害した1532年、三好家を継いだ長男の三好長慶つまり実休の兄が、阿波国を出て摂津国(阪府北中部の大半と兵庫県南東部)に居を構え、細川晴元に仕えた。
一方、次男の実休は阿波国に残り、現地の守護細川持隆に仕えて活躍。続く3人の弟たちも長慶の指示によって近在の有力家の養子となって地盤を固めた。
1546年、長慶が第35代管領細川氏綱と戦った際には、舎利寺の戦で実休の軍が敵軍を大破する活躍を見せ、兄を助けている。
その甲斐あって長慶は畿内に勢力を伸ばす足がかりをつかんだわけである。
そしてついに1549年、長慶が父親の仇である細川晴元、三好政長を倒し、室町幕府の第11代将軍・足利義晴とのちの第13代将軍・足利義輝の父子を京から追放。畿内を支配することとなった。
さて、実休の主君であった細川持隆は、もともと細川晴元に仕えていたが、晴元が実休の父の三好元長を攻めようとした時には強く反対。
離反して阿波国に戻ったほどである。長慶や実休を含む三好兄弟たちにとって持隆は、いつも好意的・協力的であり、恩人ともいうべき人物であった。
実休は阿波国でその持隆を主君として仕えていたわけだが、何らかの原因でこの両者の関係に亀裂が入ってしまう。実は、現在においても両者に一体なにが起きたのかは、明確になっていない。
そして1553年に勝端事件が起きてしまった。
三好実休が、徳島県板野郡藍住町にある見性寺で細川持隆を殺害したのである。
動機については諸説ある。
・持隆が、畿内で力を持つ三好長慶に対抗するため、足利義栄を擁して上洛させようとした
・持隆が、阿波国で勢力を増大している実休を暗殺しようとしていた
・持隆が、細川晴元の再起を支援していた
上記のいずれかについて実休が事前に察知したためではないかと考えられている。
しかし、長く三好家の庇護者として存在した持隆が、なぜその時になって実休を敵に回そうとしたのか判然としない。
とはいえ史実としては、実休は何かの理由で恩人であった細川持隆を殺害したのだ。そこにどんな理由があったにせよ「かつての恩人殺し」の事実は、実休の心の中に澱のように沈んでいたのではないだろうか。
その後、1560年に紀伊・河内国の畠山高政との戦いでも兄長慶を助けた実休は、高政を見事追放し河内国の高屋城主となっている。
しかし1562年、今度は紀伊国の根来衆を味方につけた畠山高政が反撃に出る。久米田の戦いで高政と相対した実休がついに戦死してしまった。
死因は、
・鉄砲に当たった
・流れ矢に当たった
・自害した
と、これも明確ではないのだが。
やはり彼の死は、その辞世の通り持隆殺しの「報い」だったのだろうか。
どういう状況で辞世を残したのかは不明だが、実休は自分が死ぬのはその「報い」のせいに違いないと考えていたのか。
のち、実休の死は兄の長慶のもとへと報告された。
その報せが届けられたとき、長慶は連歌会の最中だった。
弟の死の報せを聞きながらも、兄は動じることなく連歌を続け、参加者は、彼の歌の出来栄えの見事さを褒め称えていたという。
そして、会が終了したときに初めて長慶は、弟の死を周囲に告げたのだ。
兄を支えて活躍した弟の死を、表情に表さず、歌を読み上げながら受け止めた兄。
この逸話が本当なら、戦国武将であるということは、なんと不自由なことだろう。