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大内義隆の辞世 戦国百人一首92
戦国時代の末期、現在の山口県南東部にあたる周防国の官僚大内氏は、近隣の少弐、大友、尼子氏らと激しい勢力争いをしていた。
その一族の第16代当主が大内義隆(1507-1551)だ。第15代大内義興の嫡男で、周防・長門・安芸・石見・豊前・筑前の6ヵ国もの守護を兼任し、大内氏の最盛期を迎えた守護大名である。
その彼は、1551年8月に大寧寺(長門市深川)にて切腹して果てた。
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討つ者も討たるる者も諸ともに
如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)
(私を)討つ者も討たれる者(私)もみな、
人生は露のように稲妻のように一瞬であり、儚く短いものだ
彼の辞世にある「如露亦如電」「応作如是観」という言葉は、禅の教えや悟りの境地が短く凝縮された禅語である。「どうせ互いの生涯など一瞬のものなのだから」今死のうが少しあとに死のうが変わらない、といった考えを禅語に託し、読む者に言い聞かせているような辞世となった。
義隆の大内氏は、当時の中国の明王朝や朝鮮との交易で莫大な富を築いてきた一族である。少弐、大友、尼子氏らと領土争いが絶えなかったのは、周防の近隣国であると同時に、彼らが大内氏の日明貿易の海路にも大いに影響のある中国、九州北部地方での有力勢だったからである。
北九州を掌握したい大内義隆は、1532年に少弐氏を討った。同年5月には、朝廷より太宰府を統率する役としては、大宰権帥に次ぐ大宰大弐の官職を得て少弐氏よりもポジションを上げた。また、大友氏とは和睦が成立。さらに、安芸に進出してくる尼子晴久の勢力を養嗣子の大内晴持とともに打ち破っている。
ところが、だ。
翌1533年、さらに大内氏は尼子氏の本拠地である出雲の月山富田城(島根県安来市)へと遠征したが、味方の離反によって大内軍は総崩れとなってしまう。その後尼子氏に追撃される際、義隆の息子晴持の乗っていた船が転覆。後継者として期待されていた晴持が溺死してしまった。
配下の者たちの裏切りによって尼子攻めに失敗した上、期待の跡継ぎまでを亡くした義隆は、すっかり意気消沈して地元の周防に帰陣。その後の彼は、領土拡大の野心、内政への関心をすっかり失ってしまったのである。
彼はその後、学問や芸術に傾倒した。
家中では、文治派の家臣を重用し、武断派とは距離を置くようになった。
戦いを忘れた義隆により、大内氏の豊かな財力は、地元周防を京風の文化の香る町に変貌させることに注がれた。彼自身は信仰しなかったが、宣教師のフランシスコ・ザビエルに、領内でのキリスト教の布教も許している。
そんな状態が面白くないのは、武断派だ。
たまりかねた周防国の守護代陶晴賢(当時は隆房と名乗っていた)は、中国地方の有力大名毛利元就を味方にして、義隆への謀反を実行したのである。義隆にはかつて、大友家の大友晴英を後継ぎとして一度は猶子にしながら、自分に実子が生まれたために関係を解消して大友家に戻したことがあった。陶晴賢は、その晴英を大内氏次代当主に擁し、大内義隆を襲撃したのである。
ちなみに、晴英は北九州のキリシタン大名大友宗麟の実弟。のちに大内義長と名乗った。
すでに長門国守護代の内藤興盛といった重臣からも見放されていた義隆は、救援されることもなかった。大寧寺に逃亡し、立て籠もったが、兵力の差は歴然。義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦もむなしく義隆は自決を選ぶ。
息子の死で闘争心が折れてしまった武将大内義隆は、隆豊の介錯で45年の生涯を終えた。
これにより、周防の名門大内氏は事実上滅亡したのである。
その4年後の1555年10月には、主君の義隆を討ち、大内氏の実権を握った陶晴賢が、厳島の戦いで毛利元就と戦って敗れ、自刃している。
まさに「討つ者も討たるる者も」その立場を入れ替えながら、儚い生涯を閉じていった。
*時代により解釈が異なるが、戦国時代における「猶子」には、嫡子のない家の養子になっても、のちに養子先に実子が生まれた場合には、親子関係が解消され家を継げなくなる場合がある。対して「養嗣子」とは、嫡子のない家の後継ぎとして入る養子のことである。