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平塚為広の辞世 戦国百人一首㉓
1600年に関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の裏切りの犠牲になった西軍の武将・平塚為広(?-1600)。
彼が戦死したとされる藤川の地には、現在慰霊碑がある。
為広の末裔で女性解放運動家だった平塚らいてうの父・平塚定二郎によるものだ。
名のためにすつる命は惜しからじ
つひにとまらぬうき世と思へば
名誉のために殉じることができるなら、自分の命を捨てることなどは惜しくない。もともと永遠に生きられる人生ではないのだから
辞世の最初の部分「名のために」が「君がため」となっているバージョンもある。そうなると、「君」を指す人物が「大谷吉継」か「豊臣家」と解釈することもできる。
豊臣秀吉の最晩年、1598年に京都の醍醐寺三宝院で開催した宴「醍醐の花見」がある。その時秀吉の護衛をしていたのが、大力の持ち主・平塚為広だった。
平塚為広と大谷吉継は、共に関ケ原の戦いで西軍に加わった。
さてこの2人、当初から西軍についている小早川秀秋の東軍寝返りの可能性を見越していた。
だからこそ最初から小早川隊の前に布陣していたのだ。
平塚隊は、大谷隊よりさらに前方に布陣し、病身の大谷吉継に代わって両隊を指揮していたという。
小早川秀秋の動静を監視していた為広。
秀秋が東軍へと寝返るとすぐさま応戦した。
大谷隊を支援するために自分の隊の進行方向を変え、小早川隊と激突した。たった360人の兵を従えて、一説には1万5千と言われる秀秋隊にぶつかったのだ。
当初は、幾度か秀秋隊を押し返すほどの奮戦を見せた平塚隊だが、そこに平塚為広や大谷吉継の想定外の出来事が起きたのである。
さらなる寝返りだ。
秀秋の寝返りに呼応して、脇坂安治や朽木元綱などいくつかの西軍部隊まで裏切り、平塚隊に突撃してきたのである。
予想外の裏切りの連鎖。
さすがの平塚隊も壊滅し、為広は戦死した。
死の直前、為広は大谷吉継のもとに手紙を託した使いを送った。
「日頃の約束を果たし、今討死します。あなたも敵の手に掛からないうちに自害して下さい」
手紙には、彼が既に討ち取った敵将の首と彼の辞世が添えられていた。
悲しいほど潔い為広の辞世を見た吉継は深く心を打たれ、返す使者に
「為広殿の武勇と歌は、感ずるに余りあります。早々に自害して追いつき、再会しましょう」
と述べ、自分の辞世を託したのである。
それが大谷の辞世
「契りあれば六つの巷に待てしばし おくれ先立つことはありとも」
だ。
程なくして吉継も自害した。