三村元親の辞世 戦国百人一首⑨
備中松山城主・三村元親(?-1575)の辞世を紹介する。
⑧で紹介した三村勝法師丸の父親だ。
父子とも同じ戦さで命を落としたが、父親が息子に先立って亡くなった。
父は切腹、8歳だった子は斬首だった。
人という名をかる程や 末の露
消えてぞ帰る 本の雫に
所詮は人を仮の姿として生きていた露のようなもの。
死んで姿が消えても、それはもとの雫に戻るだけのことだ。
戦国大名・三村元親は、詩歌を愛する教養人であった。
歌人としても知られた戦国武将・細川藤孝(細川幽斎)とも親交があったという。
息子・勝法師丸の辞世に「露」が詠まれ、父・元親のものにも「露」が詠まれたのは偶然だろうか。
息子の辞世の中の「露」の字には「雷」が秘められていた。
チャンスがあれば、憎き仇(宇喜多氏と毛利氏か)に怒りの一撃を与えたいという強い思いが残った。
父親は、人はもともと「露」にすぎず、亡くなればまた元の雫に戻るだけだと潔く、淡泊に言ってのけた。
1566年、元親の父親・家親は、宇喜多直家によって暗殺されている。
それ以来、宇喜多直家は三村家の敵であり、仇だった。
しかし、1567年の明善寺合戦で2万の兵を率いた元親は、たった5千の宇喜多勢に大敗。
その後、宇喜多側に寝返った者を討伐しようとしても敗退した。
みるみるうちに力を失っていく三村氏。
味方の離反が進み、ついにバックアップしてくれていた毛利氏までもが宇喜多直家と手を結んでしまった。
何があっても宇喜多氏だけは許せない、元親。
だから三村氏は毛利から離反した。
しかし、毛利本隊は元親のテリトリー内で彼の息の掛かった支城を次々と落としていった。
そして最後に元親の備中松山城を取り囲む。
1575年5月、宇喜多直家・小早川隆景の攻撃を受けた松山城は陥落。
三村元親は松山城外の松蓮寺にて自決した。
元親が切腹前に詠んだいくつかの辞世のうちの一首が上記のものである。