別所友之の辞世 戦国百人一首51
1578年から1580年にかけて約2年間続いた、羽柴秀吉との「三木合戦」において、「三木の干殺し」と呼ばれた兵糧攻めに負けた三木城主の別所長治。
兄と運命を共にした弟が別所友之(1560 – 1580)だ。
飢餓状態に陥った凄惨な戦いに終止符を打つために、自身の切腹によって家臣たちの命を救った。
命をもおしまざりけり梓弓 すゑの世までも名の残れとて
後の世まで名の残ることを願って、武士の名誉を全うするのだから命も惜しくはない
別所家が三木合戦に至るまでの経緯については、友之の兄・別所長治の項に説明があるので、ここでは省略する。
別所友之は、若いながらも勇猛な武将であることで知られていた。兄・長治の命を受けて当初は宮の上の構えを守っていたが、羽柴秀吉軍に苦戦し、退却して長治の籠城する三木城に合流した。
そして秀吉軍による兵糧攻めにあい、1580年に降伏した。
家臣たちの命を助ける代わりに、兄と共に切腹をすることが条件となった。
自身の切腹の前に友之は17歳の妻を先に刺殺した。
若い妻だが、夫の友之も若かった。21歳である。
兄が切腹して亡くなった後、友之は太刀・刀・脇差し・衣裳などを家臣たちに分け与え、そのあと兄が切腹した脇差を使って腹を切った。
のち、城内にいた者たちは助け出されたが、その時に一人の小姓が辞世の短冊を持っていたという。
それらにしたためられていたのが、長治や友之の辞世として今日に伝わるものである。
別所兄弟のそれぞれの妻たちの辞世も残されている。
別所長治の妻・照子の辞世
もろともに果つる身こそはうれしけれ 後(おく)れ先立つ習ひなる世に
夫婦とはいえ、死ぬのは後になり先になることが普通だというのに、私は夫と一緒に死ねるのですから嬉しいのです
別所友之の妻の辞世
頼め来(こ)し 後の世までに翅(つばさ)をも並ぶる鳥の契りなりけり
翼を並べて二羽一緒に飛ぶように過ごしてきた夫と私は、次の世でも一緒に生きることを約束したのです
そして、長治を介錯した後に追い腹を切った家臣・三宅肥前入道の辞世も残っている。
君なくば憂き身の命何かせん 残りて甲斐のある世なりとも
生き残って甲斐のある世だとしても、主君がいなければ私のこの命があってもどうしようもない
これらの歌を目にした者は、いずれも深く感動し涙を流したという。
自害した別所一族は、菩提寺の法界寺(兵庫県三木市別所町)に葬られている。