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大内晴持の辞世 戦国百人一首72

20歳で海の藻屑となってしまったのが、大内晴持(おおうちはるもち)(1524-1543)である。
死の直前、彼の目の前に広がった海は、どんな表情をしていたのだろうか。

72大内晴持

大内を出にし雲の身なれども 出雲の浦の藻屑とぞなる 

大内家はまるで雲がわき出るような大軍で出陣したというのに、今や戦いに敗れ、出雲の浦の海の藻屑となってしまうのだ 

「出にし雲」は「出雲」に掛けている。
このようなテクニックを用いて歌を詠めるのは、晴持の歌のセンスと教養の高さに関係していそうだ。

まるでこれから自害する者の覚悟の歌のように聞こえる辞世だが、実際はそうではない。
晴持は事故で亡くなったとされている。
そのため、この辞世は実は本人の作ではない可能性もある。

晴持は3歳の時に子供のいなかった周防国(山口県)の大内義隆の養嗣子(ようしし/家督相続人となる養子)となった。
養父・義隆の姉が晴持の実父である一条房冬の側室だった関係による。

父親の姓からわかるように、晴持は公家の名門、一条家の血を引いている。美男で、文武に秀でており、管弦や蹴鞠などの雅びな教養も身に付けていた。養父の大内義隆は大層彼を可愛がったという。

1542年、出雲の戦国大名・尼子経久(あまごつねひさ)が亡くなった。
それを機に翌年3月、大内義隆は晴持を率いて出雲に出陣し、尼子晴久が籠城する月山富田城を包囲した(第一次月山富田城の戦い)。
兵力は大内氏約4万5000、尼子氏約1万5000。
大内氏が圧倒的に有利であった。
だからこそ義隆は、この戦いを晴持の初陣に選んだのだと考えられる。

しかし、戦いは「楽勝」にはほど遠かった。

大内軍に参陣していた国人衆が次々と尼子氏方に寝返ったのである。
城攻めをするフリをして、堂々と城内にいる敵方の尼子軍に加わっていったのだ。

大内氏の大軍は総崩れした。

晴持は義隆と共に出雲意宇郡(おうぐん)出雲浦まで落ち延びた。
そこから晴持と義隆は別のルートでそれぞれが周防に退却することとなった。

撤退は船を使って行われた。
義隆の乗った船は、なんとか出航して彼は無事に国へと生還している。

ところが晴持の船には、あまりの多くの者たちが乗船しようとしていた。
我も我もと乗り込もうとする味方の兵士たち。
船子たちはそれらの者たちを櫓でなぎ払う。
それでも取り残されたくない者たちは、船に取り付いて離れようとしなかった。

とうとう船が転覆した。

海に投げ出された晴持は溺死したのである。

それくらいのことで、溺死? とあなたは思うだろうか。
しかし、彼は重い甲冑を身につけていたのである。
船に同乗していた兵士たちはことごとく溺れ死んだ。

事故の原因として、晴持の人柄ゆえに乗った人を引きずり下ろすことができなかったとも言われている。

養父・義隆は後継者である晴持を初陣で失ったことを嘆き悲しんだ。
彼の供養のために、義隆は幕府に交渉して将軍家の通字である「義」を賜わり、晴持の名を「義房」として弔ったという。

可愛がって育てた後継者を失った義隆は、その悲しみのためか政務を評定衆と呼ばれる家臣たちに委ねてしまい、やがて大内家は衰退していくこととなる。

晴持が生き残っていたならば、大内家のその後も変わったのかもしれない。