吉川経家の辞世 戦国百人一首63
辞世と共に、武将が子供たちに向けた遺書を紹介したい。
吉川経家(きっかわつねいえ)(1547-1581)は、織田信長の命で中国攻めを行った羽柴秀吉に対し、鳥取城籠城戦で対抗した武将だ。
自害した彼は、上品な辞世を残した裏で、実は生き地獄を経験していた。
この籠城戦は悲惨さのあまり大河ドラマなどでも描かれることのない戦いである。「鳥取城渇え殺し」の名で知られる。
武夫(もののふ)の取り伝へたる梓弓 かへるやもとの栖(すみか)なるらん
私の家に伝わる梓弓は、私が死ねば次の世代の者が受け継いで行ってくれることだろう
羽柴秀吉が信長の命で中国地方を攻めした時、毛利氏仕えていた鳥取城主・山名豊国が、家臣の反対を振り切ってあっさり降伏したため、家老たちに追放された。
代理城主として毛利から派遣されたのが、文武両道に優れた吉川経家だった。
入城の際、自分の首桶をたずさえてやってきた経家を見て、城の家臣たちは骨のある新城主を歓迎し、鳥取城での籠城戦を構えた。
苦戦は目に見えていた。
秀吉軍2万に対し、鳥取城側は城兵と農民兵を加えてたった4000人。
籠城しか戦う方法がない。
しかも籠城に必要な兵糧は、1ヶ月もつかどうかの量しかなかった。
すでに城下の米は秀吉側によって高く買い占められ、その時鳥取城の城兵たちも、高値に釣られて秀吉側に城の備蓄用の米まで売り払っていたからだ。
秀吉軍は、無駄な攻撃をせずに城への補給路を断って城を包囲し、ひたすら時を待った。
城内の兵糧はすぐに尽きた。
2ヶ月経過。
城内の馬、牛、犬、猫、蛙、蛇、草や木の根にいたるまで食べられるものは全て食べ尽くされた。
3ヶ月経過。
餓死者が出る。
城内は、飢えの極限状態の中で餓死者の屍肉までも貪る地獄絵図と化した。
代理城主・吉川経家は、簡単に降参するわけにはいかない。
城を守って戦い抜くために派遣されたのである。
彼は、毛利家への責任と城内の惨状との板挟みに悶絶したに違いない。
空腹に耐えれきれず、思わず城外の秀吉軍に助けを求める者は、容赦なく秀吉軍に銃撃された。
倒れた者は、まだ生きている者かどうかにかかわらず、切り刻まれて飢えた仲間たちに食べ尽くされた。
4ヶ月が経過し、耐えきれなくなった経家はついに降伏、開城。
城兵の助命を条件に自分の切腹を申し出た。
実は、経家を高く評価していた秀吉は、彼を殺すつもりは全くなかった。
代理城主だった彼よりも、戦を仕掛けてきた家老たちが自害するべきだと考えていたのだ。
だが、経家は頑固に自分の自害を主張する。
秀吉は信長と相談の上、仕方なく経家と2人の家老の命と引き替えに鳥取城内の人々を救うことに同意したのだった。
経家は切腹の際に5通の遺書を残したが、うち3通が確認されている。
彼の主君・吉川広家宛て、家臣宛、そして彼の子供たちへの手紙である。
【子供に宛てた遺書】
とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候
ひゃう(ろう)つきはて候まま 我ら一人御ようにたち
おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり
おきゝあるべく候 かしこ
天正九年十月二十五日 つね家 花押
あちやこ 申し給へ かめしゆ まいる かめ五 とく五
子供たちへの手紙には漢字を用いず、仮名で書かれた。
脱字があり、混乱と衰弱による極限状態の中で書かれたものだと考えられる。
「200日こらえたが兵糧が尽き、自分が用に立って皆を助ける。これは、しあわせものがたりなのだよ」
と言い聞かせる34歳の父親・経家。
「悲しむな」との子供への愛情が滲み出る。
文末には子供たちの名前を書き連ねた。
自害後、届けられた経家の首を見た秀吉は男泣きしたという。
その後安土の織田信長に送られ、丁重に葬られた。