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事故から一年(生々しい話あり

正直、一年あれば案外怪我って治るんじゃない?って思ってました。そんぐらい楽観視しないと精神が保たなかった。

2023年8月7日 18時8分。
私の人生で最大の命との危険と、大出血と、劇を超える激痛に遭った日。
梅ケ坪交差点を名古屋方面へ、青で、前の車に着いてって走行していた所を、私が乗る原付の存在に気づかぬままトレーラーが車線変更で進入。トレーラーとガードレールとの間に挟まれる形で接触。
右のミラーにウィンカー出して入ってくるトレーラーが写ったのですがミラーを専有するほど大きく

私いるんだけど!

と思った瞬間に身体は放り出されていました。
でも、ガードレールがちょうど切れ目で、挟まれた衝撃で歩道側に投げ出されたので、ホント、ホント、命だけは無事でした。
国道19号のガードレールですよ?

Google ストリートビューを転用1
Google ストリートビューを転用2

トレーラーに気付いて加速したが時遅し。

後50cm後ろだったらここに経験談を書き込めるどころか、今使ってるパソコンもろもろ遺品となっていたかも知れません。


後に聞いた警察の実況見分でも「よくぞこの状態で命があった」と口々に言われてたそうです。
警察に言われちゃあグゥもありゃしない
一時退院などで事故現場は何度か通り、当初は近付くだけで息切れ動悸冷や汗目眩はい救心状態で、一生”梅ケ坪”という言葉すら言えないくらいトラウマになるんじゃないかと思ってました。今では「忌々しい場所め」と思えるほどにはなりましたが。

骨折と聞くと骨が折れてる状態ですが、骨折には種類があり、圧迫骨折とか複雑骨折とか若木骨折とかご存じの方も多いでしょう。
私の足は開放骨折。
基本的に

骨が肉から出ている状態を指します。

(火サスのテーマ)

症状名オオスギィ
ヨソウイジョウニヒデェ

開放は「肉から出てたら開放骨折」なので私の場合、右距骨や舟状骨は骨そのものは損傷してないんですよね。
見えましたけど。
骨の組織は連続性を喪失した完全骨折は右腓骨脛骨と左足の中指の骨になります。
見えてましたけど。
左足はアラン方向にひん曲がってたとはいえ、骨折したのは指だけで済んでいました。
深く擦りむいて血がドバドバでしたけど。

一目惚れした機体

当時私が乗っていた原付はHONDAのToday。仕事の職場が移転し自転車で40分以上かかる場所に行ってしまったため止むなく・・・だったんですが、如意申の「バイクネットワーク」にフラッと行ったら、そこで目に飛び込んで来たのがこの機体で。その日の内その場で契約し、ナンバープレートも自分で市役所に申請して貰ってきました。納車されたのは雨の日でしたが…ワークマンでイージスを買い、それを着て乗った時の幸福感と言ったら。
私はすっかり惚れ込んだその機体に「明石号」と名付けて、それはそれは大切にしました。

少し語らせて下さい。
以前シルバーウィークを利用し、阪神淡路大震災の遺構を辿る旅で兵庫に行きました。そして初の淡路島上陸も計画したのですが…
淡路島って公共交通機関が乏しく、そして私はペーペーのペーパードライバー。レンタカーなど借りたらその地で事故るのが目に見えてました。そこで使ったのがバイクのレンタル。レンタル会社に問い合わせて貸し出してもらえる原付が、HONDAのTodayだったんです。
諸々申請や振込も終わり明石にやって来たとき、そのTodayはメタリックレッド?でキラキラしていました。「可愛いな~」と思いながらレンタル。明石市内をブラっと走り、やがてフェリーに乗せて一緒に淡路島へ。そこから地図なし予定なし目的地だけのツーリング。淡路島はとても走りやすく、風光明媚で景色が楽しくて。
借りたTodayにもすっかり感情移入するほど気に入ってしまい、明石で返却する時は寂しさから涙を流したものです。
明石で出会った機体と全く同じ色、同じTodayが、バイクネットワークにあったんです。

「あの子がここまで会いに来てくれた」

と思い、その場で契約しちゃった訳なんです。
そして淡路の思い出も込めて「明石号」と名付けたんです。
(このnoteのURLの由来も明石号から)
大事に乗りたかったから、熱田神宮と鹿島神宮の交通安全お守りを着け、あいち交通事故をなくすボランティアにじいろ会さんのお守りを後ろにぶら下げていました。

あいち交通死をなくすボランティアにじいろ会|さえりん♥ストラップ (aichinijiirokai.wixsite.com)

明石号はたくさんの所へ走ってくれました。
春日井市の端から端へ、小牧、尾張旭、はては長久手まで。
その思い出も、事故は奪って行った。
原付自体は吹き飛んだ時ボディを擦り付け塗装が傷付いた程度で走行は可能なほど状態は良かったのですが、私がもう、原付に乗れるような身体ではなくなってしまいました。

事故から3ヶ月ほど後に、処理を任せた父の手によって、明石号は私の元を離れて行きました。
泣きました。号泣しました。
あんなに愛した機体を、手放さなければならない現状を呪いました。
メンテナンスをして、仲良くしてくれたバイクネットワークのスタッフさん達にも、本当に申し訳なくて、泣いて泣いて、嗚咽を吐きました。
今この記事書いてても、手放した時の喪失感や悔しさがこみ上げて泣いています。
外されたナンバープレートを渡された時、あんなにワクワクしながら受け取ったものを、こんな気持ちで外して、自分で無効化しないといけないなんて。私の一回目の入院が退院の目処が立たなかったため、事故以降は明石号本体を見る事はできませんでした。そして今あっても、見ることができないんじゃないかとも思います。

愛を込めた機体だけど、明確に事故を思い出してしまうから。

写真も結構撮ってあったはずなんですけど、今でも見れません。

ベルサイユのばらでアンドレを喪ったオスカルの叫びに
「アンドレ、私を置いて行ってしまうのか!私の半身を、もぎ取り!引きちぎり!それでもなお!それでもなお生きろと神は宣うのか!」
というシーンがあります。
たかが原付に…と呆れられるでしょうけど、私の心境はコレに近いものがありました。大好きだったんです。本当に。

半身を引き千切られる

自分の家族を交通事故遺族にすることは免れましたが、それでも失ったもの、取り返せないもの、背負い続けないといけないもの、人生そのものがひっくり返る事故でした。
右足はまだ回復してないし、筋肉や神経的後遺症は確実なので、アクセルを自分で踏んで車を運転できるかも分からないままです。
TOYOTAが手元でアクセル操作できる運転システムを公表したので、障害者認定はされなくても、手で運転できる車が出てくれたらいいなぁ。

誰か探して下さい。

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