「読解力テスト」は〝読解力〟を測っているのか
国語のいわゆる「読解力テスト」というものがある。
「読解力テスト」というぐらいだから、〈どれほどよく読めたか〉を測るテストであるべきである。しかし、そのテストの位置づけが公的であればあるほど、すなわち、そのテストの対象者が広く開かれていればいるほど、〈どれほどよく読めたか〉を問うテストにはなりづらい。
なぜか。
公平性を重視すると、文章の題材となっているジャンルに関する前提知識を問うことが難しくなるからである。たとえば、小学校国語のいわゆる「定番教材」である『一つの花』(今西祐行著)を素材文としてテストを作ったとする。そのテストで、「「お父さん」が「ゆみ子」と別れたのは、昭和何年ですか。」という出題をしたとする。たぶん、「それは国語の問題ではない。」と非難されるだろう。
「それは歴史の問題だ。」と。
しかし、本当にそうだろうか。
文中に明示はされていないけれども、あの作品が我が国の太平洋戦争下の物語であることは間違いないであろう。主人公の名前が「ゆみ子」という名前であること、食糧事情を述べるところで「おまめやおいもやかぼちゃ」が出てくること、「お父さん」と同様、出征していく兵隊が「ばんざあい」と見送られること。「てきのひこう機」が「ばくだんを落として」いくこと、……これらすべてを矛盾なく成り立たせる舞台設定として、太平洋戦争下の我が国が舞台であると考えるのが最も整合的である。
そして、『一つの花』が我が国の太平洋戦争の時期を舞台にした物語であるならば、都市空襲が本格化するのが昭和二十年になってからであること、日本の敗色濃厚となっていること、こうした点について知りもしないのに、この文章が〈よく読めた〉ということはあり得ないであろう。『一つの花』が〈よく読めた〉状態になるには、「「お父さん」と「ゆみ子」が別れた」のが「昭和二十年」になってからであることを知っている必要があるし、もともと知らなかったとしても、〈よく読めた〉状態になる過程で、「「お父さん」と「ゆみ子」が別れた」のが「昭和二十年」になってからであることを知るはずなのである。
とはいえ、通常、〈国語の読解テスト〉として、このような問題が出されることはないであろう。書かれていることからほぼ直接知り得ることを問う問題でなければならないだろう。背景知識を問うような問題では、〈たまたまそのジャンルについてよく知っていた受験者〉が著しく有利になり、公平性が損なわれる、と考えられるからである。
そこで、いきおい出題は「書かれていることからほぼ直接知り得ることを問う問題」に傾くことになる。このような問題は、何しろ「書かれていることからほぼ直接知り得ること」を問うのだから、何の工夫もしなければ〈見ればわかる〉という問題になりがちである。したがって、言葉をより一般的な表現に改めたり、論理的な関係をねじったりした選択肢を作成して選ばせるような問題、文中の表現を別の表現に改めさせるような問題が主流になる。
このような問題に答える場合、もとの文章がどのような事実を指し示しているのかについては、必ずしも明確にわかっている必要はない。文章が指し示す事実についてほとんど思い当たるところがなくても、言葉と言葉の関係を丁寧に確認するだけで、それなりに高得点を取ることが可能である。(大学入試センター試験で、大半の受験者に縁がなさそうなジャンルの問題文が採択されたときでも、平均点が約五割~六割に収まることからも、類推可能である。)
つまり、公的なテストであればあるほど、点数が〈よく読めたか〉を必ずしも正確に反映していないことがあり得る、ということである。
文章がろくに読めてもいないのに、テストの点数は良い、という事態は、本人にとって不幸である。多くの場合、テストの点数は、それが公的なものであればあるほど「実力」と捉えられやすいからである。本来は、文章を読んで思い当たるところが多くあることこそが〈読む力がある〉という状態であるのにも関わらず、なまじ「読解テスト」と呼ばれることがあるゆえに、点数が良いというだけで大して読めてもいないのに〈読む力がある〉と思い込んでしまうことはあり得る。これはたいへん〝不幸〟なことではないか。