小説を取り上げる授業で、「通読」っていうステップは要るのだろうか。 もちろん、たとえば〈その小説の全体の粗筋を把握している〉というのは、授業後の生徒の望ましい状態の一つではあるだろう。しかし、だからといって、はじめから〈全体の粗筋を把握する〉ことを直接狙った活動をさせることに何か意味があるのだろうか。 その小説を面白いと思って読む生徒は、わざわざ授業で「通読」などさせずとも、放っておいても「通読」して〈全体の粗筋を把握〉するだろう。 一方、その小説を(食わず嫌いも含めて
国語の授業で、教科書なんかに載っている文章をまとめさせる。 それはそれで意義のあることなのだろう。 しかし、それだけで良いのか? 〝まとめる〟というのは、もとの文章を粗雑に書き改めることである。ある意味、非常に怠惰な頭の使い方である。 まあ、一般に国語の授業が文章をまとめる方向に走るのは、ある意味仕方がない面もある。〝テスト範囲〟について、一通り言及する必要があるとなると、いきおい〝まとめる〟方向に傾くことになる。 ただ、文章の理解というのは、必ずしも 全体を大ざっ
よくある間違い。 〝授業中頑張っているのにテストになるとだめな生徒がいる。かわいそうだから、テストは授業中黒板に書いた通りを出題する。そうすれば、授業で真面目にノートをとった生徒が報われる。〟 というやつ。 これはだめだ。 授業のねらいとテストのねらいがずれてしまっているからだ。 授業では曲がりなりにも〝理解〟を目指しているはずなのに、テストでは暗黙のうちに〝理解無用の丸暗記〟を推奨してしまっている。 テスト(特に定期テスト)では、〈授業中、真面目に〝理解〟を追求し
○×方式のテスト。 一問一答式のテスト。 記号選択式のテスト。 今どき、このようなテストは、「知識偏重」だとして、〝程度の低いテスト〟と見なされるだろう。 逆に、 記述式のテスト 論文式のテスト あたりは、「思考力」を問うテストだとして、〝高級なテスト〟と見なされるのだろう。 あほらしい。 「○×方式のテスト」とか、「一問一答式のテスト」とか、「記号選択式のテスト」が〝程度の低いテスト〟に成り下がるとしたら、それは、そのようなテストに〝だけ〟対応するような授業をや
多くの国語の授業で見られる光景。 教科書の文章について、教師と生徒がなんらかのやりとりをしながら、黒板に〝まとめ〟ていく。 生徒は黒板の内容をノートに写す。 定期テストでは、授業中に〝まとめ〟られた内容、すなわち生徒のノートに書いてあることが出題される。 テスト前になると、もはや教科書は要らない。テスト前には、生徒はもっぱらノートばかりを見ている。 ……実にくだらない〈国語の授業〉ではないか。 こういう〈国語の授業〉では、たいてい授業中に文章の解釈が定められる。そ
国語のいわゆる「読解力テスト」というものがある。 「読解力テスト」というぐらいだから、〈どれほどよく読めたか〉を測るテストであるべきである。しかし、そのテストの位置づけが公的であればあるほど、すなわち、そのテストの対象者が広く開かれていればいるほど、〈どれほどよく読めたか〉を問うテストにはなりづらい。 なぜか。 公平性を重視すると、文章の題材となっているジャンルに関する前提知識を問うことが難しくなるからである。たとえば、小学校国語のいわゆる「定番教材」である『一つの花』