よくある〝国語の定期テスト〟はあほらしい

多くの国語の授業で見られる光景。

教科書の文章について、教師と生徒がなんらかのやりとりをしながら、黒板に〝まとめ〟ていく。

生徒は黒板の内容をノートに写す。

定期テストでは、授業中に〝まとめ〟られた内容、すなわち生徒のノートに書いてあることが出題される。

テスト前になると、もはや教科書は要らない。テスト前には、生徒はもっぱらノートばかりを見ている。

……実にくだらない〈国語の授業〉ではないか。

こういう〈国語の授業〉では、たいてい授業中に文章の解釈が定められる。そうしないと、テストの問題が作れないからである。高校国語の定番教材『羅生門』なら、〈「下人」が初めて「老婆」を認めたときに生じた「ある強い感情」は、たとえば「六分の恐怖と四分の好奇心」である〉というふうに定められてしまう。

そして、「「ある強い感情」とはどのようなものですか。説明しなさい。」のような問題が出される。

このような〝テスト〟に何の意味があるのか。

元の文章を丁寧に詳しく読む、ということが一切できていなくても、テスト前にノートに書いてある問いと答え(もはや自力で〝写した〟ものである必要さえない。)を丸覚えしておけば、相当な高得点が取れるのである。実にくだらないではないか。(そして、こういう〝テスト〟は、〈わけもなくとりあえず丸覚えしておく〉ということができる生徒、すなわちいわゆる〝学力の高い〟生徒に著しく有利である。授業でどんな立派なことをやっていようが、テストがこうなのだから、授業全体としていわゆる〝学力の低い〟生徒を引き上げる、という効果はほとんど期待できない。)

授業で、文章の解釈を確定させる必要などない。国語の授業でしなければならないのは、文章を読めば知り得ることを知らしめることだけだ。(そして、そういう活動を通して〈文章を読んで知らないことを新たに知る〉知りかたを知ることだ。)知るべきことを知った結果、それをどう組み合わせて、どのような解釈に至るのかは、個人の自由に属することだ。

だから、文章から知り得ることを知らしめた後、話し合い等をするにしても、一定の〝落としどころ〟に誘導する必要などない。教師は、明らかに妥当性を欠く結論に至りそうなときに、〝ツッコミ〟を入れればよい(「きみたちの出した結論は、文章中のこの記述と整合しない。」という形で。)。結論など、一つにまとまる必要はない。同程度に妥当性のある、複数の異なる結論が出るなら、それは素晴らしいことなのだ。

そして、テストでは、〈文章がよく読めた/読めているなら、当然知り得ること/知り得たはずのこと〉を問えばよい。

先に挙げた『羅生門』なら、「「下人」が「はしご段」を上るとき、どのようなことに気をつけていましたか。」とか、「「老婆」が「死骸」から髪の毛を抜くようすを、語り手はどのようにたとえて表現していましたか。」といったことを問えばよい。

このようなことは、『羅生門』がよく読めた/読めている読者なら、もはやテクストが目の前になくても答え得るはずである。(逆に、この程度のことも答えられないで、「おれは『羅生門』をよく読んだのだ。」と主張する者を信用できるか?)

だから、国語の定期テストに、いわゆる〝本文〟は不要である。〝本文〟を引用するのは、必要最小限にすべきである。授業中によく読んでいるなら、もはや目の前にある必要がないからである。

多くの国語科の授業は、〈授業中に答えを出し、その答えをテストで問う〉という愚を犯している。

そうではなく、〈授業中に答えの決まりにくい問いを詳しく検討し、その過程で当然知り得るはずのことをテストで問う〉という形にしないといけないのだ。

読者諸賢の意見を求む。(この文章の存在に気付く人はまれだと思うけど。)

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