「通読」って要るの?

小説を取り上げる授業で、「通読」っていうステップは要るのだろうか。

もちろん、たとえば〈その小説の全体の粗筋を把握している〉というのは、授業後の生徒の望ましい状態の一つではあるだろう。しかし、だからといって、はじめから〈全体の粗筋を把握する〉ことを直接狙った活動をさせることに何か意味があるのだろうか。

その小説を面白いと思って読む生徒は、わざわざ授業で「通読」などさせずとも、放っておいても「通読」して〈全体の粗筋を把握〉するだろう。

一方、その小説を(食わず嫌いも含めて)面白くないと思う生徒に授業の場で「通読」させようとしても読まないだろうし、授業中にその小説を無理矢理読ませ(?)ながら、教師が黒板等にまとめた「粗筋」で仮に〈全体の粗筋を把握している〉状態になったとしても、それは教師がまとめた「粗筋」を「通読」したのであって、小説を「通読」したのではないだろう。

ならば、授業中にわざわざ「通読」させる意味などないのではないか。

授業では、本当に追求するに値する「謎」を追求すればよいのではないか。ほとんどが食わず嫌いであろう、小説を読もうとしない生徒でも、「謎」を追求した結果として、その小説を「通読」したのと同じ状態になれば良いのではないか。

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