森鴎外の最期「馬鹿らしい」と叫ぶ
皆さんこんにちは。Pinkです。私は家族や親戚の最期に立ち会った経験が何度かあるのですが、話が出来る状態では無かったり、あまりにも急だったりしたので、森鴎外の「馬鹿らしい」と叫んだ最期に、不謹慎かもしれませんが興味を持ちました。
今回はその森鴎外について書きたいと思います。
森鴎外とは
日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医、官僚。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士といった多彩な人物です。
東京大学医学部卒業後は陸軍軍医となり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年間を過ごしました。
帰国後に発表された小説「舞姫」(*)は有名ではないでしょうか。翻訳「即興詩人」を発表する一方で、同人達と文芸雑誌「しがらみ草紙」を創刊して文筆活動に入ります。
(*)…1890年に発表されたデビュー作で代表作になります。医学を学ぶ為にドイツへ留学した時の体験を前提とした作品で、「自伝的小説」とも言われています。当時大変な評判でしたが、批判的な意見も多かったと言います。
「日清戦争」出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、「スバル」創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表しました。
その後、乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表。「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「渋江抽斎」等も執筆しました。
陸軍を退いた後は宮内省に転じ、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や図書頭を死去まで務めた他、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任したとの事です。
私は、森鴎外と言えば、小説家で、医師でもあるという認識しかなかったので、調べてみて、改めて凄い人物だと思いました。
以下、参考サイトになります。
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森鷗外 - Wikipedia
森鴎外の遺言
森鷗外は日露戦争に第二軍軍医部長として従軍した際、公証人役場で「遺言」を残しています。要点となるのは、戦地で命を落とした場合の、森家の財産管理に関するものでした。
「遺言」には妻である志げに対し、「財産相続」に全く関与させないことが明言されています。
当時、妻の社会的立場は今と格段に違っていたとはいえ、森鷗外は、戦場から繰り返し妻に手紙を送っており、志げのことを「やんちゃ殿」と呼ぶなど微笑ましいエピソードもあります。
こうした二面性のあるところが、森鷗外を理解する上で立ちはだかる壁に思えたとの事です。
確かに、この微笑ましいエピソードを知ると、妻である志げに対して、「財産相続」に全く関与させないとは、私にはどうしてなのか理解することは出来ません。
やはり、今とその当時では、それ程妻の社会的立場は、低いとされていたということなのでしょうか。
最期の言葉
人は亡くなる時「遺書」や「遺言」を書くとは限らず、病状にもよりますが、最期の言葉は何かしら発するのではないかと私は思います。
森鷗外は1922年7月9日午前7時に息を引き取りました。60歳4カ月余。死因は「萎縮腎(いしゅくじん)」と発表されましたが、実際には「肺結核」も患っていました。
彼が最期の言葉を発したのは、看護師によると、7月6日に「遺言」を口述した後だと言います。意識不明となり危篤寸前の夜のことでした。枕もとの看護師が、突然の大きな声に驚いたといいます。
それは「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」と、力のこもった明確なはっきりした声でした。「どうかなさいましたか」と聞いても返事はなかったそうです。それにしても、「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」とは。どうしてだったのでしょうか。
医師によると、自身の最期に大声を出すとは考えにくいとの事です。しかし、森鷗外ならおかしくないと頷いてしまうところに、彼の器の大きさがあるのではないでしょうか。
森鷗外の弟潤三郎によると、死の前年から下肢に「浮腫」が出て「腎臓病」を疑い、家族は尿検査を勧めたのですが、彼はどんな時でも医者の診察は絶対に受けない主義で、仕事を続けたそうです。
ところが、亡くなる3週間前に妻の志げに懇願されて初めて検尿を提出したとの事です。さすがの森鷗外も、妻にはかなわなかったようです。私個人としては、妻を愛おしいと思う気持ちからだと思っています。
また、当時は有名人の死において、デスマスクの型を取ることは珍しい事ではなかったようですが、志げは、後にデスマスクの複製を3つ作らせています。森鷗外と自分、子供の3人用だったのだろうという事です。
森鷗外の18歳年下で後妻に入った志げの余生は辛いものだったと伝わっています。しかし、私にはそうは思えないのです。それは、志げが彼のことを愛していたと信じたいからです。
森鷗外は最期に、志げにどんな言葉をかけたのでしょうか。それは誰にも分かりません。
人は亡くなる時「遺書」や「遺言」を書くとは限らず、病状にもよりますが、最期の言葉は何かしら発するのではないかと私は思います。
森鷗外は1922年7月9日午前7時に息を引き取りました。60歳4カ月余。死因は「萎縮腎(いしゅくじん)」と発表されましたが、実際には「肺結核」も患っていました。
彼が最期の言葉を発したのは、看護師によると、7月6日に「遺言」を口述した後だと言います。意識不明となり危篤寸前の夜のことでした。枕もとの看護師が、突然の大きな声に驚いたといいます。
それは「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」と、力のこもった明確なはっきりした声でした。「どうかなさいましたか」と聞いても返事はなかったそうです。それにしても、「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」とは。どうしてだったのでしょうか。
医師によると、自身の最期に大声を出すとは考えにくいとの事です。しかし、森鷗外ならおかしくないと頷いてしまうところに、彼の器の大きさがあるのではないでしょうか。
森鷗外の弟潤三郎によると、死の前年から下肢に「浮腫」が出て「腎臓病」を疑い、家族は尿検査を勧めたのですが、彼はどんな時でも医者の診察は絶対に受けない主義で、仕事を続けたそうです。
ところが、亡くなる3週間前に妻の志げに懇願されて初めて検尿を提出したとの事です。さすがの森鷗外も、妻にはかなわなかったようです。私個人としては、妻を愛おしいと思う気持ちからだと思っています。
また、当時は有名人の死において、デスマスクの型を取ることは珍しい事ではなかったようですが、志げは、後にデスマスクの複製を3つ作らせています。森鷗外と自分、子供の3人用だったのだろうという事です。
森鷗外の18歳年下で後妻に入った志げの余生は辛いものだったと伝わっています。しかし、私にはそうは思えないのです。それは、志げが彼のことを愛していたと信じたいからです。
森鷗外は、志げにどんな言葉をかけたのでしょうか。それは誰にも分かりません。
以下、参考サイトになります。
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こちらでも記事を書いているので、よかったら読んでみて下さい!
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