「お見合いが嫌なのでギャルのふりをしたら、相手が初恋の人でチョベリバでチョベリグでテンサゲでテンアゲ↑↑」第1話

《あらすじ》
淑子はギャルだ。普段から、ギャル語を話し、キラキラしたネイルに童貞を殺すセクシーな服、髪は勿論、盛りに盛っている。
嘘である。
不仲な叔父に強制されたお見合いをぶっ壊すために、ギャルのふりをしただけであった。
だが、なんと、お見合い相手は高校時代の後輩で、初恋の人でもある行永だった。
事情を説明しようとしたものの、行永がギャルが好きだと言い出し、つい、このまま演技続行することにしてしまい?

《第1話》
「どーもー! ヨッシーこと、阿比留淑子でーす」
 カールが強い長い金髪のカツラに、つけまつ毛バシバシの目、短いのにダメージしまくりのダメージジーンズ、そして童貞を殺すといわれているセーター。
 コートを脱いでフル装備を惜しげもなくさらした淑子は、見合いが行われる料亭に遅れてついた上、右目の前でピースした。
 もちろん、長いキラキラのつけ爪が目立つように爪を外側に向けてだ。

(決まった!)
 庭からカコーンと、ししおどしの音が響く中、淑子は悦に入った。

「な……な!」
 血管を浮かせた叔父は言葉も出ないようだ。
「遅れてごめんちゃい! 許してにゃん」
 そうして完全に引いているであろう見合い相手に、猫の手を作りながら向き合った瞬間、息をのんだのは淑子だった。
(う、うそでしょ)

「その……えっと、淑子いや、ヨッシーパイセン? お元気そうでチョー良かったです?」
 すごく気を遣ってノリを合わせようとしてくれた男は、一分の隙もなく高そうなスーツを着て、正座をしていた。
「ゆゆゆ行永くん、いや、行永きゅん、ちょ、超おひさー、あえて嬉しすぎて、や、ヤバタニエンー」

 見覚えのありすぎる男に淑子の声は震えた。
 斉藤行永、高校時代のパソコン部の後輩である。
 高校時代は、分厚いめがねで隠されていたがコンタクトにしているのだろう。彼の顔がいいことを知っているのは淑子だけだと密かに自慢に思っていたが、今は沢山の人が知っている。
 斉藤行永は今はやりのIT社長というやつである。以前、経済誌で彼の成功を知り、偉くなるとは思っていたがここまでとはと驚いたことを覚えている。
 大学時代に作ったゲームアプリが日本だけでなく世界で大当たりしたので、てっきり今はアメリカにいるものだと思っていた。

 更に言うと、行永は淑子の初恋の相手でもあった。学生時代の叶わなかった淡い恋。
 そんな行永にアラサーが年甲斐もなくギャルファッションに身を包んで、若者言葉を無理して使っているところを見られたのだ。

(え、これ地獄じゃない? っていうか、なんで行永君がお見合い相手に??)
 現実ではなく夢かもしれないと思い始めたが、頬はつねれない。演技は続いているのだ。

「よしこぉっ! その馬鹿みたいな格好はなんだっ!」
 ようやく言葉を発せられるようになった叔父に怒鳴られ、覚悟を決めていたとはいえ、淑子の肩は一瞬跳ねた。
「これが本当のあーしだから! 結婚するなら知っといてもらわないとじゃん?」
 胸に手を置いて、くいと顎をあげる。鏡で練習したギャルっぽいポーズである。

「違います、違います、違います、斉藤さん! 淑子は本当は地味でつまらない女なんですっ!」
 叔父は淑子を身売りさせることで、危機を迎えている自社への援助を行永から得ようとしているのだ。
 淑子は叔父が見合いをしろと命令してきたときに、如何にして叔父に嫌がらせをするかばかり考えてしまい、相手が誰かなんて気にも止めなかったことを後悔した。
(相手の釣書きはせめて見ておくんだった)

「あーし、派手なのだーいすき。だってギャルだし!」
 本当は逃げ出したい、だが、もう板には登ったのだ。
 ショー・マスト・ゴー・オン。
 淑子は人工ものの金髪を指でくるくる回した。 
 行永は怒りを堪えるようにわなわなと震えている。高校時代、行永は気が長すぎるほど長かったが、流石に怒っただろうか。
 見合い相手を怒らせるつもりで来たとはいえ、相手が相手なので、叔父のいないところで後で言い訳できるならさせてもらいたい。

「よしこぉおお! すみませんっ! 今日は一旦これにて! おい、行くぞっ!」
 叔父の手が伸びてきたとき、行永が机を叩いた。

「ヨッシーパイセン! 僕もギャル大好きです! チョベリグです、チョベリグ!」
「「は?」」
 目を輝かせて親指を立てた行永に、普段はかなり仲が悪い叔父と淑子は、その瞬間だけ、息があった。
(チョベリグって流石に古すぎない?)
 淑子はそのとき、突然の行永のギャルが好きだという性癖の告白よりも、チョベリグが気になってしまった。
 頭がついていかなかったのだ。

「そそそ、それは本当にチョベリグですなぁ! 一時はチョベリバになるかと思いましたが、それなら良かった、あとは若いお二人で、私はこれにてドロンしますので!」
 淑子より先に復活した叔父が忍者ポーズをし、そそくさと部屋を出ていく。
 引き止めはしなかった。そもそもこの叔父と長く同じ空間にいたくはない。
 だが、これからどうすればいいのかもわからない。

「えっと、行永きゅん」
「パイセンがヨッシーなら、僕のことはどうぞユッキーと」
「りょ、了解道中膝栗毛ー」
 もう叔父はいないので高校時代のように君付けで呼べばいいし付け焼き刃のギャル語もやめればいいのに、淑子は止め時を見失った。

「ヨッシーパイセン、あの頃もお綺麗でしたが、一段と輝かれてますね」
 それは、ラメを顔面にふりたくってるからである。
「あ、ありが……あざましー」

(行永君、あのころとは違って、サラッとお世辞とか言えるようになったんだ)
 多分、さっきのギャルが好き発言も淑子に気を遣ってくれたのだ。
 もやもやとするのは告白もできず胸にしまったまま終えた初恋の傷跡なのだろう。
 淑子を優しいと一言褒めるだけでも、どもりながら、顔を真っ赤にしていた学生時代の行永。
 でもあのころの方が、本気で褒めてくれているのだと感じられて嬉しかった。
 必死で褒めてくれる姿がとても可愛くて、キュンとして……。

「お腹は空かれてませんか? 何か注文しましょう」
「いやえっと……」
 料亭の単品注文などいくらするかわからないので淑子は断ろうとした。
 だが、その瞬間、ぐぅううとお腹が鳴ってしまう。緊張して朝から何も食べていなかったのだ。ふふ、と行永が微笑んだ。
「松花堂弁当にしましょうね」
 慣れているのか店員を呼び出し、遠慮する間もなく注文してくれる。
「寒くはないですか?」
「うーん、ちょっとだけ寒いかも?」
 なんてったってこのセーター肩と背中のほとんどが丸出しなのだ。真ん中に「金」という漢字が書かれていればまさかりを担げそうだ。
「どうぞ」
 近づいてきた行永が淑子の肩にスーツの上着を掛けた。
(あれ、めちゃくちゃ優しい? いや昔から優しかったけど、気が利くタイプではなかったのに……)
 淑子はへなへなと自分が本来座るはずだった場所に腰を下ろした。

「あ、あざまし。えっと、ユッキー、えっと、その、びっくり、したよね?」
 淑子はこの非常識な行いをした事情を説明しようと正座をした。
「僕はいいと思いますよ! ギャル! サイコーです!」
 行永がぐっと、親指を立ててきたので淑子は頷いた。 

「そ、そっか。なら良かった。ええっと、ご趣味は?」
 淑子はとりあえずお見合いで定番の質問をした。
 本来ならば、相手方はキレるか呆れるかのはずなのに、キラキラとした瞳を向けてくる行永に、何故か本来の見合いの形に戻さなければと思ったのだ。
「ゲームを作るのは今も好きですが、やっぱり、映画ですね」
「そうなんだー。昔から好きだったもんね。高校生のときに貸してくれたDVDも面白かったし」
「そういえば、昔ヨッシーパイセンが絶賛していた監督の最新作、上映しているんですよ。今度、いっしょに行きましょう。いつが空いていますか?」
「へ? あ、来週の土日とか?」
 流れるように予定を聞かれ、淑子はつい答えてしまった。
「では、土曜日に。予約しますね」
 そう言って行永がささっとスマホを弄った。
「予約できたので、連絡先教えていただけますか?」
「え、もう? えっと、ありがとう。QRコード出すね。あれ? どうやるんだったかな」
 どこをさわればいいのかわからず、色々とボタンを押しては戻る。
「もしよければ僕が操作するのでスマホをお借りしても?」
「シクヨロー」

 どうやら、デートは決まったようだ。断る隙さえ与えられず。
 そうして淑子は理解した。
(行永君って、本当にギャルが好みなんだ……)



「マ? てか、昔の好きピがお見合いくるとかテンアゲじゃん。うちの逆コナンもたまにはいいことする」
 逆コナン。つまりすぐ怒ったりする子供っぽい大人のことである。
 見合い後の夜、地味な部屋着に着替えた淑子は本物のギャルで従姉妹の由実の前で頭を抱えていた。
「どうしよう、由実」
 淑子は早くに両親を亡くしており、叔父夫婦に引き取られた。
 今は亡き血の繋がりのない叔母はよくしてくれたが、叔父とは折り合いが悪く、叔父の娘ではあるものの同じく折り合いの悪い由実を引き取り、小さなアパートで姉妹のように暮らしている。

「どうしよって。姉さん、ギャル服似合うし、着ればいいべ、いくらでも貸すし」
「いや、姉さんアラサーだからね」
「ギャルは心っ、年齢なんてかんけーねー!」
 そもそも淑子がギャルのふりをしたのはお見合いをぶっ壊すためだった。
 淑子は社会人だ。しかも養子縁組もしていないので叔父とは親戚でしかない。だから簡単に縁は切れる。
 だが、親子である由実はそうはいかない。由実はめちゃくちゃ可愛い上、成人しているとはいえ、まだ何をするにも親の許可が必要な大学生。
 だから、叔父が由実に無理矢理に見合いをさせようと行動する前に思い知らせなければと考えたのだ。
 無理にお見合いさせるとこうなるぞと。
 だから、由実を真似てギャルのふりをしたのだが……。
(いや、成功体験与えちゃ駄目じゃん!)
 まさか行永の好みがギャルだったとは。このまま見合いを続行したら叔父の目論見通りになってしまう。

「こ、断らないと……」
「いいじゃん、いいじゃんそのままで。デートは向こうからさそってきたわけっしょ? 話聞く限りまんざらじゃないべ」
 きゅるんと可愛い顔で由実が見上げてきた。
「行永君の問題じゃなくて」
「わーってるって。あーしのために親父の目論見通りに行くのが嫌ってのは」
「それは……」
 今回のギャル作戦に多大に協力してくれた由実にはお見合いをぶっ壊したいということしか伝えていなかったが、賢い子なので淑子の意図に気づいていたのだ。

「ワンチャン、あいつがあーしをターゲットにしてきても、自分で対処するっしょ。ほんと心配性。姉さんにはBIG LOVE。だから、自分の幸せ見つけてほしいんよ」
 指でハートを作る由実に淑子はうつむいた。
「でも……」
 淑子は亡き叔母に由実のことを託されているのだ。
 そのとき、ブルッとスマホがバイブした。
 噂をすれば影で、行永から連絡が来たのだ。
「キタキタキタ、あげぽよー」
 隣ではしゃぐ由実とともに内容を見る。

『今日はありがとうございました。久々にお会いできてとても楽しい時間でした。次回ですが、新宿駅東口に10時に待ち合わせでよろしくお願いします』
 丁寧でありながらも、拒否する隙がない文章である。
「逃がす気な! 絶対向こう、姉さんに気ぃあるじゃん。あーしがキュン死にしそう」
「そうかな?」
 淑子は頬が熱くなるのを感じた。
「気合い入れるべ! あーしの服貸したげるからね!」
「なるべく地味なのにして」



「先輩、これ、やってみていただけませんか?」
 二人きりの高校のパソコン室。淑子はさっそく行永の使っているパソコンを覗き込んだ。シューティングゲームのようだ。
「新しいのできたんだ! 楽しみ」
 ぽんと、肩が当たり、本当はドキドキしていたが、淑子は気にしていないふりをした。

「あ、ごめん」
「い、いえ。な、なるべく、誰でもできるように操作は簡単にしてみました」
 早口になった行永がクイと、メガネを上げた。
 その頬は赤く染まっていて、彼がどれほど淑子を意識しているかよくわかる。
 その姿を見ているのがバレないよう淑子はパソコンに視線を戻した。

「クリッククリック、打てた!」
 的は外したものの淑子は歓声をあげた。
「今は弓しか使えませんが、そのうち銃とかも使えるようにする予定です」
「おおおおお! すごい。あ、当たった!」

 淑子は一応このパソコン部の部長だ。だが、その技術は行永の足元にも及ばない。せいぜいブラインドタッチが限界である。
 淑子と行永が所属するパソコン部は幽霊部員がかなり多い。というより、皆、幽霊部員になるために入っているのだ。
 私立の自称進学校である我らが学びやは、部活はなにか一つ強制入部させられるのだ。
 やる気のあるパソコンオタクは皆、大会で優勝経験もあるロボット部に行ってしまうので、基本的にパソコン部は開店休業状態である。
 とはいえ、部員の数だけは多いこともあり部室としてパソコン室を充てがってもらえているため、淑子は一年生のころから自習室代わりに使っている。

 出席率の高さから部長となった淑子の下、一学年下の行永が顧問の先生に誘われたらしく、入部してきた。
 彼も幽霊部員になるのだろうと思いきや、たまにしか顔を出さない顧問の先生の指導で、行永はどんどん腕を上げていき、一年経った今やゲームを作れるほどとなっている。確実に次の部長だ。

「やったぁ、レベル上がった! 面白い、やっぱり、行永君はすごいね」
 大人しい行永と地味な淑子は気が合い、淑子は行永が作ったゲームをいつも一番最初にさせてもらっていた。
「いえ、全然、ぜんぜん……」
 照れて行永の頬が更に赤くなった。
(可愛いなぁ)
「将来はゲーム会社の社長さんかもね」
 行永は本当に優秀なのだ。成績だって淑子ほど勉強していないのに学年一位だ。きっと将来はこんな風に話すこともなくなるのだろう。

「せ、先輩は?」
 行永が意を決したように口を開いた。
「え?」
「先輩は将来何になりたいんですか? その、えっとどこの大学受けるのかなって……、来年の参考にできたらと」

 淑子は毎日パソコン室で勉強をしている。
 両親が事故で亡くなり引き取ってもらった叔父の家に居場所がないわけではない。
 叔父はともかく、叔母は良くしてくれているし、まだ幼い由実は可愛い。
 それでも、これ以上、叔父に借りを作りたくなく、淑子は成績基準の奨学金をもらうようにしているため、学年順位を下げられないのだ。
 由実のことは大好きなのだが、淑子がいると遊んで欲しがるので家ではなかなか勉強にならない。
 だから淑子はパソコン室で毎日勉強しているし、成績もそこそこいい。

 私立で自称進学校のこの高校の卒業後の進路はほとんどの人が大学に進学し、少数が浪人する。だから、淑子が大学に行くと行永が考えていてもおかしくない。
 淑子は一転、真顔になってしまっていたことを自覚し、笑顔を作った。
「実はまだどこの大学にするか決めてないのー。どうしよう、とりあえず将来はいっぱい稼ぎたい!」
 本当は高卒で社会に出るつもりだった。大学に行きたかったが、事故死した父は叔父に借金をしていたらしく、返済しなければいけない。
(行永君はきっといい大学行くんだろうな……。それできっと素敵なキャンパスライフを送って、そのうち、可愛いカノジョとかできて、私のことなんか忘れるんだろうな……)
「それより今のゲーム、面白かったからもう一回してもいい?」
 嫉妬と羨望、淑子はうまく笑えているかわからなかった。



「ねねね、山内ちゃん、今日もかわいーね!」 
 会社で、いつものようにパソコンに向かっていた淑子は名前を呼ばれ、顔を上げた。
 阿比留というのは入り婿した叔父の名字で、淑子は阿比留家と養子縁組もしていない。
 一緒に暮らしていたときは阿比留と名乗っていたが、就職したときに戻した。元々戸籍上は山内なので、ややこしかったのだ。
「杉田さん、今回は何しでかしたんですか?」
 両手でチェけらしつつ、ウィンクをしてきた杉田を淑子は軽く睨むふりをした。
 この同僚は普段からチャラいが、頼みごとがあるときが一番チャラい。
「いやーーーー、ちょっと、経費精算の締切を忘れちゃって……」
「今回だけですよ。全くもう、何が可愛いですか。ほんと調子がいいんだから」
 因みに前回も今回だけですよ、と言った覚えがある。 
「ごめーーーん。でもホント可愛いって思ってるから」
 杉田が両手を合わせた。
「はいはい」

 淑子は今も昔も地味だ。
 髪は一つにくくり、化粧っ気もない。
(行永君はすっごく、洗練されてたな……)
 三つ揃えのスーツに、さり気なく高そうな時計、適度に鍛えられた体。
 淑子の知らない時間で、変わった行永。
 もう淑子なんぞを相手にドキドキしたり、頬を染めてくれることもないのだろう。
 ズキリと胸が痛む。 

 高校卒業後、淑子は学校に推薦してもらった老舗旅館に住み込みで働いた。
 だが、叔母が体調を崩し、叔父は由実の面倒を見るという考えもなかった人なので、叔父の家に戻るため退職を考えていると当時の上司に相談したところ、痛く同情してもらえた。
 それで上司の口利きで、系列企業のリゾート会社の事務に転属させてもらえたのだ。
 嫌なことを考えていたせいだろうか、プライベート用のスマホが叔父からの電話だとバイブしだした。
(面倒くさい……)
 ギャル語で言うとウザベルというやつである。淑子は勿論、拒否し、仕事に戻ったのだった。



「山内さーーーーん、さっきはありがとーーーーー、それでさ、お礼と言ったら何だけど今度……」
「え? あ、杉田さん」
 昼休み、スマホとにらめっこしていた淑子は声をかけられたことに気づいて、顔を上げた。
「どうしたの? なんか、あった??」
 眉間に皺が寄っていたからだろう、心配そうに杉田が小首をかしげた。
「いえ、ちょっと厄介な親戚から電話が来ていまして。無視したいんですけど、そうするともっと面倒なので電話する前に覚悟を決めているところです」
「どの家にも、親戚に一人は厄介な人いるよね。頑張って」
「ありがとうございます」

 淑子は席を立ち、非常階段に出た。
 はーーーーと、深いため息をついた後、電話をした。
 コール音はすぐさま終わった。
『お前っ、何度電話したと思っている!』
「仕事中ですから。そちらこそ、仕事はどうされました? ああ、開店休業状態でしたっけ?」
 伝統工芸品制作と販売をしていた叔母の実家に婿として入った叔父は、叔母が亡くなってすぐ、社長となり、会社の実権を握ろうとした。
 しかし、今まで何もしてこず、社長をしていた叔母に実態のない専務にしてもらっていただけの男が急に口を出してきたら職人たちは面白くないに決まっていたわけで。
 番頭が職人と従業員を全員引き抜いて、店の真向かいに新しく店を作ったのだ。
 老舗だったので、地元では結構なニュースになった。
 今は残された在庫を売って凌いでいるようだが、新作も作れない状況で、潰れる日は近いだろう。
 叔父が淑子の仕事中に電話してきたのはおそらく、お見合いをドロンした後、どこかで飲んで、遅く起きてから電話してきたためだ。

『行く場所がなかったお前を引き取ってやったこの私に向かって、なんて口の聞き方をするっ!』
 怒鳴りつけられるのは予想していたので、淑子はあらかじめスマホを耳から離していた。
 何が引き取っただ、忙しい叔母に丸投げでろくに世話もしてくれなかったくせに。
「その件でしたら、叔父さんを訴えないことで貸し借りはなしになったはずですが?」
 羽振りがよかったころの叔父に父が借金をしていたというのは真っ赤な嘘だった。
 酔っ払った叔父から真実を聞いた由実が淑子に教えてくれたのだ。
 それがあの親子の断絶のきっかけだったこともあり、由実は今、淑子と暮らしている。
 ふん、と叔父が電話越しに笑った。

『お前が私に金を送っていたのは、引き取ってくれたことへの感謝の仕送りだったはずだ』
「は? あんたが、ありもしない父さんの借金の返済を迫ったからでしょ!」
 淑子はスマホを思わず強く握りしめた。
『何の話がわからんね。証拠はあるのか? 証拠は』
「っ、この!」

 愚かだったのだ、この上なく。
 進学先を両親の遺産で賄いたいと叔父に告げた高校生のとき、淑子は一枚の借用書を見せられた。
 曰く、両親の遺産は叔父への借金の返済で全額使ったが、まだ借金は残っていると。
 パソコンで作られ、山内というシャチハタが押されただけのたった一枚の紙。
 それが淑子の人生を狂わせた。
 偽の借用書はおそらくもう捨てられているだろう。
 騙された淑子が馬鹿だった。

『そんなことより、あの後、上手くやったんだろうな。お前なんぞに勿体ないほどの見合い相手を用意してやったというのに、お前というやつはあんな馬鹿な格好で来おって。まあ、先方が気に入ったからよかったものの』
「斎藤さんにはあんたの会社に投資しちゃ駄目って伝えるつもり」
『そんなことしたら、由実の大学に連絡して、親の権限で大学中退させるからなっ!』
「なっ! 何考えてるわけ、あんたの娘でしょうがっ!」
 淑子は思わず怒鳴った。由実は頭が良く、将来は弁護士になるために法学部に通っているのだ。
『兎に角、私の会社に投資させろ! 金を引き出せ! 向こうはどうせお前で遊ぶつもりなんだからハメてやれ! やらなきゃ由実を中退させるからな!』
「ちょっと!!!」
 ぷつ、と一方的に電話が切れた。
(どうしよう……)
 そのとき、またスマホがバイブした。なにを伝え忘れていたのか知らないが、ろくなことではなさそうだ。
「由実を不幸にしたら許さないっ! いっそ、私があんたを」
 殺してやる、と言おうとしたときだった。

『淑子先輩?』
「え?」
 行永の声だ。
 スマホの画面を見ると、行永と表示されていて淑子は目を見開いた。
『どう、されたんですか?』
「ごめん、勘違い。さっきまで別の人と電話してて」
『大丈夫ですか?』
「ああ、うん。土曜日なんだけど……」
 行けなくなった、と言おうとして言いよどむ。
 行永に叔父の会社に投資してもらわないと夢のために頑張っている由実が退学にされてしまう。でも、行永を騙すようなことはしたくなくて、これ以上言葉が出なかった。

『電話相手、昨日お会いした叔父さんですか? 失礼ながらあの人の態度は淑子先輩を軽んじているように思えました』
「いや、えっと……」
 図星すぎて淑子は返事に窮した。
『淑子先輩、大丈夫です。話せるところだけでいいので、話してみてください』
 それはとても、優しい声だった。それでつい、淑子は言葉が漏れ出た。
「叔父が従姉妹を親の権限で退学させるって言い出して。由実、奨学金で大学行ってるのに。こんな、酷い……」
『大学は本人のサインなしでは退学させられませんよ』
「えっ?」
『心配なら学生課に問い合わせてみてください。もし、退学届が出されても本人の意志ではないと先に伝えて予防線を張っておくと、先輩がより安心できていいかと思います』
「わた、わたし……」
 また騙されたのだ。あまりにも馬鹿すぎる。いつになったら学ぶのか。
 涙が溢れそうになって、スマホ越しに嗚咽が聞こえてしまわないよう、息を吸った。
 淑子は気づけば、拳を握り込んていた。

「ごめん、もう行永君とは会えない」
『は?』
 行永の声が聞いたこともないほど低かった。
『……っ理由をお伺いしても?』
「叔父が会社に援助をお願いしてるでしょ? 多分、叔父は耳触りの良いことを言って、行永くんを騙そうとしていて、ごめんなさい」
『ああ、なんだ。それなら問題ありませんよ』
 ふふ、となんてことないように行永の声が笑った。
「そう、なの?」

『取引先の銀行主催の異業種交換会で名刺交換したときに、阿比留、という珍しい名字から先輩のご親族ではないかと伺った。元々はそれだけの話なんです。確かに援助の話はしてこられましたが、会社間での取引はしていないですし、するつもりもないので安心してください』
「よかった、よかった……」
 淑子はその場にしゃがみ込んだ。
『土曜日、来てくださいますね?』
 淑子は電話越しにも関わらず何度も頷いた。
「うん、ありがとう」


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