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うつ×ADHD×東大受験 2 息子のマイペース受験記 生い立ち
生い立ち
ここで息子の生い立ちについて触れようと思う。
息子は両方の祖父母にとっての初孫として生まれ、小さな頃から穏やかな性格だった。やさしくて、あまり勝気ではないタイプ。
保育園の運動会では同じチームの子が負けたことに悔し涙する横で、勝ったチームに対して笑顔で拍手していた。
乱暴なことをしないので友だちも多く、小学校では同じ保育園の友だちが少なく不安そうにスタートしたものの、たくさんの友だちに恵まれ、仲良くしてもらっていた。
人の目を見て話すのは苦手。それは小さい頃から少し気になっていた。
小学生になってゲームが欲しいと言ってきた。
「ゲームを買って30分だけという約束をするのは親のエゴです。30分でやめられるわけないでしょう?買うからにはゲーム漬けになる覚悟が必要です」
という学童の先生の助言を真に受けて、
「ゲームは大学に入ったら買ってあげる」
といってみた。
思いのほかあっさりと
「わかった」
というので、本当に物わかりのいい子だなとびっくりした。
内心ではどうしてもごねてごねて仕方なければそのとき考えようと思っていたのだ。今思えばそれは大きな落し穴だった。
一度であきらめることと、それほど強く欲しがっていないことは決してイコールではなかった。
サッカーがやりたいともいってきた。
これもこれ以上習い事を増やすのは難しいのではないかということで叶えてやれなかった。
勉強は一生懸命素直にていねいにやることが多かったが、忘れ物が多かった。
必要なものを持っていかない、そして眠い中苦労してやり遂げた宿題を出さないで帰ってくる。
つらい思いしてがんばってやったものを無かったことにできるのかと、わたしにはとても不思議だった。
小学校中学年になると学校の友だちはゲームでのつながりが増え、友だちとの話に入りづらくなった。
それでもいじめられているわけではなかったし、ゲームを持っていない友だちもいることはわかっていたので、そこまで大きく捉えていなかった。
学童の終わる小学校3年の3月、東北地方太平洋沖地震があった。
普段は学童の終わる時間ギリギリに迎えに行っていたが、その日はたまたまわたしが会社を休んだので、珍しく自分で下校することになっていた。
家に帰ろうと校庭に出たところで揺れがきて、電信柱と電線の尋常ではない揺れが本当に怖かったそうだ。
小学校4年から学童がなくなってしまうので、それを見越して3年生の2月から塾に通いだした。小さな子どもがひとりで過ごす時間が長いのがとても心配で、塾のある日はなにかあれば連絡が来るだろうと思ったからだ。近所の友だちと一緒に通うことにした。
息子は今まで保育園、学童と手厚く見守られてきたのが、それがなくなった春に限って余震で不安な毎日を家でひとり過ごすことになってしまった。
それまで家の引き出しにしまってあるお菓子を食べてもいいかなんて聞いたことがなく、気が付けば勝手に食べていたのに、会社に家から電話がかかってきて急用かと慌てて出たら
「お母さん、引き出しのこのおやつ食べていい?」
なんて聞いてきた。
寂しくて不安でたまらなかったのだろうと思う。それでもなんとかがんばっていたものの、夏休みの長時間を家で過ごすことになり、限界を迎えた。
「ひとりでいるのが怖いからお母さんに会社を辞めてほしい」
といってきた。
いろいろ考えて、会社を辞めることにした。仕事は定年まで続けようと思っていたが、小さい頃からずっと子ども好きだったのに、時間に追われてバタバタする毎日で、育児を楽しむよりサバイバル的な生活となっていることが残念でもあったから、いいチャンスかもしれないと思った。
一転してゆっくりと時間がとれるようになった。
「行ってらっしゃい」
と毎朝学校へ行く子どもの背中を見えなくなるまで見送るたびに
「幸せだなー」
と心の中でつぶやいた。
中学受験
わたしが家にいることになったので、改めて塾について子どもの意思を確認すると、中学受験してみたいということだったので、そのまま通塾を続けることにした。
どういう学校がいいのかわからないので4年生のときにいろいろな学校の文化祭を回った。
男子校が多かった主人の勧めは共学だったが、普段の学校生活で女子の主張ばかり通る状況に甘んじていた息子は男子校を希望した。
第一志望は労作展を見て魅かれた慶應義塾普通部。
この学校への思いを胸に一生懸命がんばっていた。普通部から慶應の医学部を目指す…これが息子の描いた進路だった。
徐々に成績もあがったが、6年生になってからは停滞気味で、ついに11月の塾長面談で、志望校の変更を強く勧められた。
「普通部じゃなかったら偏差値が届かなくても受けるだけ受けたらと言います。でもここを受けると望みが薄いのに失うものが大き過ぎるのですよ。面接もありますから。午後受験ができなくなりますし。しかも普通部から医学部に行くのは至難の業で、大学受験で慶應医学部を目指した方が可能性は高いですよ」
その言葉を伝えたとき息子は泣いてなかなか納得できずにいたが、しぶしぶ別の学校を第一志望に定めることに同意してくれた。
中学受験はインフルエンザというアクシデントに見舞われた。まずかかったのは次男で、タミフルで順調に治った。
もう受験間近だったので、必死に長男への予防投与もお願いしたが、そのドクターは薬を飲めばギリギリ受験までには治るからと、予防投与はしないとの強い方針で断られてしまい、数日遅れて罹患した。
疲れている時のインフルエンザの勢いはものすごかった。
「なにかあったら電話して」
と子機を枕元において別の部屋にいると内線の呼び出し。
はぁはぁと荒い息づかいの後に
「ママ、助けて!早く来て!」
と切羽詰まった声が聞こえた。
急いで息子のもとに行くと、視線は部屋の上の方を追っていて、
「ほら、あそこにいる!こわいよ、助けて」
と汗だくの姿で訴えてきた。
「え?何がいるの?」
とたずねると
「怪獣だよ。怪獣がこっちに来る!」
状況を把握しようと部屋を見回すと、閉めていたはずのブラインドは上がり、窓が開いている。
とにかく落ち着かせなければと息子を抱きしめ、
「大丈夫だよ。もう大丈夫。安心して」
とギューっとした。
次第に息子は落ち着きを取り戻して何が起こったか説明してくれた。
「電気スタンドとかその辺にあるいろんなものが次第に集まって大きく合体していって怪獣になって、襲ってきそうになったんだ。だから僕逃げなきゃと思って窓を開けたんだけど、格子がついてて逃げられなくて、もうダメだと思ってママを呼んだの。」
こんなにリアルに幻覚を見るのかと驚いた。でもその部屋にはもっと大きな窓があり、そこには格子もついていなかったので不思議に思って尋ねた。
「どうしてそこの窓から逃げようと思わなかったの?」
「怪獣がそこに立ってたからだよ。
だからそっちには行けなかったんだ」
ぞっとした。タミフルを飲んだ子供が窓から転落というニュースは知っていたが、危ないところだった。
その窓の外は固いタイル。高熱でフラフラして落ちたら怪我をしたに違いない。神様が本当にいるのかわからないが、何にでもいい。
「ありがとうございます」
といわずにはいられない気持ちになった。
この幻覚まで見た脳へのダメージは強く、熱が下がっても目の焦点が合わずトローンとした目のまま受験1日目を迎えた。それでも息子は1日目から受験することを選択した。
2日目もトローンとした目でいるのは変わらず、思ったような結果が出せない日々が続いた。
それでも3日目、ようやく目に力が戻ってきた。そして3日目に第三志望の学校に合格し、なんとか行き先を確保。
その後、第二志望の学校に合格した。
そのときの
「僕この学校に通っていいんだね!やったー」
と弾んだ息子の声は忘れられない。
中学校入学
そういうわけで息子は私立の中高一貫校に進んだ。男子校だ。
中学校に馴染むのに時間はかかったが、徐々に慣れた。
中学受験ではパッとしない成績だったのがうそのように、中1の定期テストは学年5位から10位のあたりをうろうろしていた。
わたしは試験前の一夜漬けで何時間も粘った口だったが、息子は1教科30分くらいの勉強でさっさと切り上げてしまう。
試験勉強というのはそんなものじゃないということを教えようとしたが、
「学校の授業を真剣に聞いていればだいたい理解できる」
といって結果を出すので、正直驚いた。
テストをクイズみたいに楽しんでいて、定期テストになるとまわりの子と勝負してジュースを奢り合ったりと、生き生きして見えた。
特に好きなのは英語。小学校の頃からネイティブの英語の先生に英語を教わっていた。
日本語のできない先生だったので、わからないことも多かったようだ。それが中学では日本語で解説される。
「こういうことだったのか!」
という発見があり、理解力もぐんと上がった。
この学校からは毎年10名くらいが東大に合格していたので、これならもしかしたら自分も東大に行けるかもしれない、せっかくなら東大をめざしてみようか、と思ったそうだ。
でもそう順調にはいかなかった。
爆発
中2くらいに反抗期を思わせるような距離感となる。
ひどい言葉や暴力はないものの、関わりたくないという感じ。そして勉強も苦手科目が出てきた。
テスト前は
「テストのために勉強したら普段の実力がわからない」
という理論を持ち出して、気分が乗らない科目はほとんど勉強しなかった。
ただひとつ頭が下がると思ったのは、テスト前の勉強はしなくても、テストが終わると必ず復習して正答を確認していたことだ。
わたしはそんなもの試験がすべて終わってからやったらといいたかったが、次の日の試験勉強は置いておいて、わからなかったところは気になるからと復習はみっちりとやっていた。
息子はワーワーはしゃぐタイプではない。中2まではクラスの中に合いそうな友だちを見つけてその友だちと過ごしていたが、中学3年のクラスはとても活発な人が集まったクラスで、ちょっと居心地が悪かったようだ。
この頃には反抗期かと思うような態度は収まって普通に話していたが、ある晩大爆発を起こした。
夫が出張で帰らない日だった。
もう寝ようとしていたら空いた隣のベッドにやってきて、ゴロンとしながら
「なんで小学校の時にゲームをやらせてくれなかったの?」
と問い詰め始めた。
「あれで自分の順調だった学校生活がすべて変わった。ゲームの話ができないから友だちがいなくなってつらかった。サッカーもさせてもらえなかったし、習い事は多いし、僕本当につらかったよ。なんであんなに厳しくしたの?」
静かだった口調が次第に力を帯び、しまいにはバンバンとベッドに足を振り下ろして、やり場のない怒りに体が乗っ取られているようだった。
そしてものすごい勢いで泣き始めた。
息子がごねた記憶はなく、すぐにあきらめていたので、ここまで辛い思いをさせているとは思いもしなかった。
自分のやりたいことを主張する子どもばかりではない、ぐっと飲みこんであきらめて、深い傷を負ってしまう子もいるということを初めて知った。
そして紛れもなく本当に大切に思って大事に育ててきたわが子をこんなにも傷つけてしまったことがショックだった。
「本当にごめんなさい。辛い思いをさせちゃったね」と謝りながら一緒に泣いて、ふたりとも2~3時間しか眠れずに夜が明けた。
その時から何かあると少しずつわたしに心の内や不安を打ち明けてくるようになった気がする。
夫にはわたしが思いを伝えた。普段から「だめなものはだめ」と妥協のない接し方だったので、息子から夫に伝えることは避けた。
夫と話し合い、タブレットのゲームを解禁すると夢中でやっていたが、やるだけやると熱も冷めていった。
次に夢中になったのがIQテストだ。ネットでIQテストをすると130~143で高い数字を出すのに燃えていた。
その次のマイブームが性格診断だ。
ネットでいろんなサイトを探しては性格診断し、向いている職業、向かない職業を見ていた。
なぜそんなにいろいろなサイトをはしごしたか。
お金の稼げる仕事に就きたかったのに、向いているといわれる職種はどうも稼げるのはひと握りの人だけで、あまり稼げないことの多い仕事ばかりだったからだ。
ならば好きな仕事をしながら別でお金を稼ぐしかないのか、と次なるマイブームが投資だった。
授業でも模擬株式投資をしてクラスで1番稼げたことから、いろいろ調べていたが、そのうち株式から仮想通貨に興味が移り、チャートの見方などもマスターして、
「ねえ、どうしても就職しなくちゃだめかなあ。個人投資家としてトレードして食べて行きたい」
というようになった。
しかも、それならもう学校もやめていいのではないかというのだ。
「投資はそんなに甘いものではないと思うよ」
と伝えるも、一度向かった心はなかなか引き返せない。
そこで50万円を貸して好きに投資させてみた。
息子はその時流行っていた仮想通貨につぎ込んだ。筋は本人のいうようになかなかよく、最初は順調に増えていった。
だから夏休みも、スマホ片手に性格診断と投資で時間をつぶしていたのだった。