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母というひと-082話

 母が大学病院に転院した以降も私はほぼ毎日通い、父も思ったより頻繁に午前中のうちに顔を出しているのが、面会者名簿の欄で確認できていた。

 ある日のこと。
 病室へ行くと母のベッドがきれいに片付けられていた。

(え?)

 荷物もなく、シーツはさっき掛け替えられたばかりのようにまっさらだ。
 慌てて病室の入り口に掛けられた名札を見に行くが、名札も取り外されている。

(まさか、突然容体が悪化して……)
 怖い想像が一瞬よぎったが、家族に連絡がないのはおかしいと考え直しナースステーションで確認すると、「ああ、病棟が変わりました」との答え。
 外科病棟から血液内科の病棟へ、前夜のうちに移されていたと言う。

(血液内科なんて科があるんだ)
 聞き慣れない科名が口の中でゴロゴロしたが、とりあえず言われた通りに病棟の階を移動する。
 移動先のベッドでは母が昨日と同じに横たわり、「夜にな、病棟、移ったんで」と、私が知らないと思って教えてくれようとしたので少し笑った。
「知ってるからここに来れたんだよ」と言うと「そうかえ」と言う。ありがとうと言うと、うんん、と喉の奥から音を出す。会話の意味を、どこまで分かっているんだろうか。

「三崎さんの娘さんですか」
 ベッドの横に置かれた折り畳み椅子に座っていると、看護士の女性に声をかけられる。
「生体検査の結果が出て、お母様にはこちらに移っていただきました。
 先生が詳しいお話をしたいと言ってるんですけど、近いうちにお時間ありますか?」
 テキパキと話をされて、よく分からないまま頷く。
「時間なら今日でも大丈夫です。明日でも」
 大学病院に移って日も浅く、まして病棟の初日なので、誰も私が毎日付き添うことなど予想していなかった。看護師は「時間があるうちにお話しした方が良いですよね」と、ナースステーションへ戻ってすぐに担当医師との時間調整を行ってくれたようだ。
 その数十分後、会議室のような場所へと連れて行かれた。

「先生が来ますので、かけてお待ちください」と言われ、ドアの中へ促される。
 一歩踏み込んだ目に飛び込んで来たのは、真っ白な壁、真っ白な長机、真っ白なカーテン。

 前の病院で緩和病棟へ移された日とオーバーラップする。
 あの日も、室内に入った瞬間に、何もかもが真っ白に見えたんだっけ。
 でも、なぜだろう。イメージがまるで違う。
 あの、一瞬音も輪郭も消えたような生気のなさとは違う白。この部屋の白には温かさと柔らかさがある。
 窓が開いていて風がカーテンを揺らしているからだろうか。
 心地良さすら感じられた。

 体育館で並べられるような低いパイプ椅子に座ると机の高さは私の胸の下あたりに来てしまい、頬杖もつきづらいので背もたれに体を預けて少し深く息を吸う。
 ゆっくり長く、吐く。

 手ぶらで来てしまったせいですることもなく、ただ座っていた。
 眩しいほどの白い部屋で、ぽつんと点のような自分を感じながら、ただ、ぼうっと。
 ノック音でハッとするまで、ゆっくり15分はあっただろうか。

「お待たせしましたね、すみません」

 ドアを開けるなり背後から私に声をかけて来た人を振り向いて、驚いた。それはあの、外科外来で診察中にずかずかと入って来て言うだけ言って出て行った、名前を名乗らなかった医師だった。

 どうしてこの人がという疑問が、きっと顔に出ていただろう。
 彼は名刺を差し出し、血液内科の科長であることを私に告げた。

(あの時も思ったけど、大柄な人だなあ)
 私はぽかんとしたまま、そんなことを思いながら名刺を受け取る。
 差し出された名刺には、大柄な体格に似合わない、鈴の字が入った可愛らしい名前が印刷されていた。そのミスマッチが、緊張を少しだけやわらげてくれる。

 彼の話し方は、あの日と全く一緒だった。
 無駄がなく、芯が強く、押し付けるようなところはないが頷くしかない説得力がグイグイと迫ってくる。
「先日行った生体検査の結果が出まして、GISTではなく悪性リンパ腫であることが分かりましたので、外科からこちらへ移っていただきました」
 と言う。

 なんの予測も準備もないままの頭には唐突すぎる展開で、理解がついて行かない。
 呆気に取られて思考停止した脳みそを頑張って動かして、〈前の病名は間違いでした、新しい病名はこっちです〉と言われた、くらいのことはなんとか飲み込んでみる。
「GISTじゃない…?」
 やっとそれだけが口から搾り出せた。

 先生からすれば、こんな反応は珍しくもないのだろう。混乱したままの私に「そうです」と手短かに答えて、<正しい病名>とその説明を駆け足で進めてくれた。
 彼の話し言葉は思い出せないが、内容は概ね以下の通りだ。

 生体検査の結果、GISTではないことが分かった。が、悪性リンパ腫という癌であり、かなり進行した状態であることには変わりない。
 悪性リンパ腫とは血液の癌で、血の流れに乗って全身へ広がるため転移が早いのが特徴。
 ステージはⅣ期。B症状あり。これは、リンパ腫が広範囲に広がっていて、体重減少や発熱などの症状があるということ。
 深刻ではあるが、GISTに比べれば、まだできることがある。有効だと思える治療から始める。
 治療にあたっては家族の同意が必要だが、それは今後全て娘さんであるあなたに確認して良いのか。

 ざっと、こんなような話だった。
 そして確か、非ホジキンリンパ腫のB細胞性と言われたはずだ。
 そのB細胞性に対して有効な治療があるから、それを行うという流れだったと記憶している。が、あまりに頭がついて行けていなかったので、どこかに間違いがあるかもしれない。

 私の反応を待たずにどんどん進んで行く先生の言葉に一応は頷き続けたが、どうしても病名が変わるという事実に追いつけず、説明を終えた先生が「慌ただしい説明になって申し訳ない。時間が取れなくて」と、風のごとくさっと部屋から去った後、数秒か数十秒か、固まって動けなかった。

「大丈夫ですか?」と声を掛けられて初めて、開けたドアを押さえて、私が部屋を出るのを待ってくれている看護士がいることに気づき、慌てて立ち上がった。
 そんな気配にも気づかないくらい、呆然となっていた。

 頭の中はぐっちゃぐちゃだ。

 GISTは悪性の腫瘍で、治る見込みはほぼないと言われていた。だから前の病院でも、その前提の緩和ケアが始まっていたのに。
(それが違ったら、どうなるんだ?)

 GISTより助かる見込みがあるのかないのか、今までの検査で見えていたものと今回分かったものの違いは、母の命にどんな影響を与えるのか……。
 まるで想像ができない。

 その夜、父から電話があった。
「母さんの病棟が変わったぞ。一応知らせておこうと思ってな」と言われてガクッと来た。
「知ってる。今日も行ったから」
「そうか、行ってくれたのか」
 こんなやり取りの中で、私は毎日行ってるよ、前にもそう言ったじゃん、と言いたくなったが、説明するのも面倒になって用件だけ聞くと電話を切った。

 私が母にどれだけ一生懸命付き添っても、母以外はそれを知らない。父も、兄も。
 そう気付いて妙な脱力感に襲われたのだ。

 それでいいと思っていたけれど、もし母がこのまま死んだら、2人とも私に対して良い思いを持ってないだろうから、結果的に私が一人で勝手に骨を折っただけで、仕事もお金もなくなった悲惨な状態に落ちたところで一人ぼっちになったりするのかも。
 そんな想像を、初めてした。
 怖くなった。

 残念だけど、付き合っている男性は頼りにはならない。その事実から目を背けることもできなくなった。私が暮らす家に転がり込んだまま住み続け、私が作る食事を食べて、時々思い出したようになけなしのお金を渡してくる相手では。

 母の余命があとどれくらいであっても、私は、私の生活を見直す時期に差し掛かっていた。
 しかしそんな気持ちの余裕が持てないくらい、母の治療は急発進する。
 S医師は、私にこう言った。

「先日お話しした通り、お母様の悪性リンパ腫に有効な治療から始めます。もし効かなければ治療を変えることになりますが、その都度またご説明します」

「効果が現れない可能性もゼロではありません。その場合は、余命としては一ヶ月持つか二週間持つか……厳しい状況は変わらないでしょう。
 だとしても、できることをする価値はある。ここ数日見ていましたが、こんなに家族が付き添っている人は滅多にいません。家族がしょっちゅう会いに来る人とそうでない人では、頑張れる力が違うことがあるんです。
 非常に個人的な意見ではありますが、私はその"家族力"を信じても良いと思ってます」

 家族力。

 今でも、この瞬間の映像はくっきりと残っている。
 この日から続く困難な時期の最中、私は何度も何度も、この言葉を思い出していた。


「私は普通」と言い張る母の、普通とは言い難い人生を綴っています。
000047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本題です。

(画像出典:photoAC)

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仰倉あかり
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