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「田舎の学問より京の昼寝」って今思うと呪縛だったのかも/『圏外編集者』
並行読書派のわたし。同時期に読んでいる本に思わぬ共通点があるとゾクゾクします。「小説×エッセイ×実用書」「海外ミステリ×旅エッセイ」のような組み合わせで、そのとき読みたい本を複数冊読み進めていくスタイルなのですが、なんの脈略もなく選んだのに「似たエピソードが出てきた」「舞台となった場所が近い」とか、(なかば無理やり)“偶然”を見つけてはにやりとしてしまうのです。
そんなの、わたしの好みで選んだ本なんだから似ていたり共通点があったりするのは当然なんですが、ちょっとした「運命的ななにか」があると信じたほうが楽しいですよね。
で、最近その「運命的ななにか」を感じずにはいられなかったのがこの2冊。
都築響一氏も松浦弥太郎氏も、大御所であり伝説の編集者という共通点はありますが、個人的に抱いているイメージは、平成サブカルストリートの表通りにいたのが松浦氏、裏通りにいたのが都築氏、といったもの。記憶が25年くらい前で止まっています。
現在わたしは編集者・ライターと名乗っていますが、もともと目指していたのはエディトリアルデザイナーでした。高校卒業後、地元福岡のエディトリアルデザインを学べる専門学校に通いながら、虎視眈々と上京の機会をうかがっていたのです。
SNSがない時代、東京への憧憬を募らせたのは雑誌だった
90年代前半から2000年代初頭にかけて、雑誌の勢いたるやすさまじいものがありました。ファッション誌はストリート系、ギャル系、赤文字系にいたるまで付録なんか付けなくてもじゃんじゃん売れていたし、『STUDIO VOICE』『CUT』『relax』などカルチャー系に関しては、予算が潤沢にあることが特集内容や紙質からも伝わってきました。
上記のカルチャー誌と『olive』『mc sister』(たまに『seventeen』や『プチセブン』)を愛読していたわたしは、当然「ここにはなくて東京にはあるもの」を追い求めるようになりました。
ハリウッドランチマーケット、下北の古着屋、東急ハンズ、ムラサキスポーツのショッパー、池袋サンシャイン、同潤会アパート、シネマライズ、青山ブックセンター、etc。今思うと「なんでムラサキスポーツ?」って感じですが、当時は雑誌こそ最先端の情報ツールだったので、それらは途端に憧れのアイテム・都会の象徴として地方っ子の心に刻まれたのでした。
地方のいち読者でしかなかったわたしでも、当時から都築響一・松浦弥太郎の名前は知っていました。都築氏は言わずと知れた『TOKYO STYLE』の人、松浦氏はたしか『relax』か『olive』にm&co.booksellersが紹介されていたことを記憶しています。
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「無用な劣等感」を植えつけられたひとりとして
当時のわたしにとって、この2人のように「なんか新しいことをやっていて発信している大人」は、東京以外は文化資本が乏しく、どんなにがんばってもそれを享受できないことを間接的に思い知らされる存在だったのですが、20年の時を経て、どうやらそれは間違っていたらしいと知ることになったのです。
都築氏は『圏外編集者』の中で、当時のメディアの欺瞞について痛烈に批判しています。てっきりメディア側の人だと思っていたのですが、「メディアの垂れ流す虚像の外側にある広大なリアリティ」を追求した結果、東京に暮らす普通の若者のリアルを切り取った『TOKYO STYLE』が生まれたのだそう。
多数派の僕らは、どうしてそういう少数派を目指さなくちゃならないのだろう。どうして、ほかのひとより秀でてなくちゃならないのだろう。
日本を見渡してみれば、国土の90%は「地方」だ。国民の90%は金持ちでもないし、ずば抜けて容姿に優れてもいない。でもメディアは、残りの10%にしか目を向けようとしない。
この日本に暮らすほとんどの人は、雑誌に載っているような部屋に住んでいないし、キラキラした生活なんて送っていないというのに、どうしてそんな少数派に憧れるように導かれてしまったんだろうーー。
「読者が勝手に憧れたんでしょ」と思うかもしれないけど、当時は今に比べてライフスタイルのパターンが乏しかったこと、さまざまな情報から自分の価値観で取捨選択できるほど、そもそもの選択肢がなかったことは、その時代に青春時代を過ごしてきた人なら痛いほどわかるはず。
そしてわたしは、次の言葉に鼻の奥がツーンとしたのです。
メディアが取り上げる例外的な「東京」が、いかに美化されたウソなのか、それが地方の子たちに、いかに無用な劣等感を植えつけているのか
そうだよ、そうなんだよ。ようやくわかった。
あのとき、上京したての21歳のころ。
渋谷のパルコも代官山のハリウッドランチマーケットも、下北沢のヴィレッジバンガードも、行く前のワクワク感が瞬時に「なんだこんなもんか」に変わった気持ち。
よく考えたら、地元の福岡は当時から都会だったんです。大名、今泉、薬院、西通り、親不孝通り(当時)には、オシャレなセレクトショップもミニシアターもライブハウスもカフェもバーも、なんでもあったんです。
わたしが勝手に「地方だから東京より劣っている」と決めてかかっていただけなんです。学生時代、あんなにもライブに行って映画を観て、浴びるほど文化資本を享受してきたのに、当然のように「東京に行かないと欲しいものが手に入らない」と思っていたんですね。
きっとそんな「地方の子たち」っていっぱいいたんだろうな。
今はむしろ全国どこにいても、リアルタイムで同じ情報が手に入るし、発信する手段もあるから、東京への憧れを募らせる子はあまりいないかもしれません。
当時の自分を否定するつもりはないけど、長年抱いていた劣等感が無用なものであり、勘違いさせられていたのだと知っていたら、きっと違う選択をしていたのだと思います。
ここまで書いてきて、松浦弥太郎氏の『いちからはじめる』についてあまり触れていないことに気づきました。『圏外編集者』と並行して読んでいたため、2人の仕事への向き合い方、人付き合いで心がけていることなどを比較できてとても興味深かったです。
正直、読む前は松浦氏のほっこりしたイメージもあり、「今のわたしに寄り添ってくれそうなのは断然『いちからはじめる』だな」と思っていました。ですが、いざ読み終わると、都築氏のほうが意外と情に厚く、働くうえでのポリシーなんかは共感することが多かったように感じます。松浦氏のほうがけっこうドライというか、割り切っている感が伝わり、両者のイメージが完全に反転したことは面白い発見でした。