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力の入れ具合

自分をいつの間にか諦めているのではないかと思う時がある。

諦めないとやっていけないのではないかと、そういうことを悟った時が多分あった。もともと全部全力で頑張ってやるのが普通だと思っていた。でも、手を抜かないと自分で自分の首を絞めていることがあるということを知った。頑張るのはいいけれど、自分を追い込みすぎて辛くなるのはまた違うのではないかと思った。だから、ある時から無理やりかもしれないが手を抜くようにした。まず、今まで一度も授業で寝たことがなかったところを、寝てみることにした。どこから手を抜いていいかわからなかった私は、とりあえず不真面目を演じてみることにした。でも、やはり寝ることはできなかった。人が話しているのに聞かない、しかも自分の知識になることを無視するということができなかった。でも無理やり続けた。少しずつ授業中に違うことを考えるようにしてみた。そんなことをしている間に、これがいいのかわからなくなってきて、自分でも何がしたいのか訳がわからなくなっていた。

そこで考えたところ、もっと自分の大事にしたいものを見つけようと思った。今まで全部を全力でやっていたのはなんのためだったのか考えてみた。理由がなかった。そういうものだと思っていた。だから、自分の中で納得ができるように理由を考えようと思った。自分の行動にはちゃんと自分の中にある気持ちが源となるようにしようと思った。自分にとって大切なものを考えて、それだけは譲らないように全力を尽くそうと思った。それ以外は、たいしたことではないということにこの時気づいた。

おそらく、今までは大袈裟に考えすぎていたのだ。それくらい、手を抜いても大丈夫という考えを無理やりでも植え付けてみることで、少し肩の荷が降りたように感じた。生き方が不器用だった私が、周囲の人の言葉を全力で受け止めたからこそ、少しだけコツを掴んだかもしれないと思えた時だった。

でも最近、惰性で行なっていることが増えてきたように感じて、何かが足りない。満たされているようで満たされていないと思う時が、少しだけ顔を覗かせている。自分でも何が引っ掛かっているかはわからなくて、考えようとする。でも、考えすぎることだけが正解じゃないということを覚えた私は、頭が痛くなる程考えるスタートラインに立つ前に、自分で警告音を鳴らし、気を紛らわすことが増えている。そのようにすることで、得たものと失ったものが同時にあるように感じている。悩み苦しむことから自分で逃げているような、逃げているから楽ではあるけれど、向き合っていないのかもしれない自分を問題視したり、でも今の状態で悩みを深掘りすると爆発するのではないか、今の自分で耐え切れるのか、壊れないかという不安などさまざまな思いが巡る。だから、なんとかなるのではないか、時間がもしかしたら解決するのかもという心の底から賛成できないこの思いに身を任せている。考えることが癖になっていてそれで進んできた私が、考えないでひとつの山を乗り越えようとしているのかもしれない。これで成功できるのかはわからないし、また深く考える私に戻る出来事がこの先起きるのかもしれないけれど、今は自分で決めてこうしている。から、少しの間は自分を諦めてあらゆることを流している、とは考えずに、身を任せることを練習していると思うようにする。

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