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エピソード0 はじめに
私は昭和の終わりの頃に今は廃校になった東京都のあきる野市にある都立の全寮制の高校を卒業して、本州最西端の山口県下関市にある大学に入学しました。キャンパスは下関駅から山陰線に乗って6つ目(私の在学中は5つ目)の吉見駅から徒歩15分の吉見湾の入り江にあります。
高校では剣道部に入りましたが、3年生の体育の授業でやったラグビーが楽しかったので大学ではラグビーをやろうと思いました。入学したところは学生数も少ない地方の小規模な単科大学で、運動部もサークル活動の延長でラグビーも楽しく取り組めるのだろうと軽い気持ちでラグビー部に入部しました。
ところがそこには、学校の創設そしてラグビー部の設立にも大きく関わったその大学の大先輩で、火の玉みたいな熱血監督がおられました。
その熱血監督は、戦時中に釜山水産専門学校に入学し、終戦直前に校長や教官とともに練習船で帰還して、戦後下関にできた水産講習所に転入学してラグビー部を同期の仲間と創部しました。そしてそのまま大学に教官として残りラグビー部の監督になり、4年生の大半が遠洋航海実習でいなくなってしまうハンディキャップを抱えながら、大学選手権に出場権を持たなかった地方校(※)にとって、もうひとつの大学選手権である全国地区対抗大会の予選に挑み続けて、5度も中四国代表決定戦に導きました。
そして同期生には、高校時代にオール大阪のウイングに選出されて関西大学のリーグ戦に所属する大学に入りましたが、どうしても船に乗りたくて再受験してやってきたこれまた情熱の塊みたいな後の主将と高校時代にラグビー部の中心選手として活躍したちょっとやんちゃな名コンビ、そしてそのほかにも個性豊かな面々が私も含めて7人集まり、その中で私もビシビシと鍛えられました。
そんなちょいと剛気な水大ラグビー部に入部してから4年生の10月に遠洋航海実習で出航するので引退するまでのちょっとヘンだけど面白いかもしれないエピソードを コチラに綴っていこうと思います。
(*)脚注
(1993年の「大学選手権」の改革により、それまで出場の機会が全く無かった、北海道、東北、東海、中国、四国のチームにも出場の門戸が広げられた為、それらの地方のリーグ戦では、優勝校が先ず「大学選手権」への代表決定戦に参加し、それ以外のチームが「地区対抗」に参加する方法に変化している。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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