「介護」
先日、母の通院に付き添った。数年前の癌の手術後の定期的な検査の結果を聞く。概ね問題はないが新たに気をつけるべき変調があり進んだ場合には手術とのこと。本人も私もふむふむと聞き、その後父の入居中の介護施設へ届け物とお支払へ。しかし受付の閉まった2分後に着いた。
今日はもう受け付けられないが金額ぴったりだったら大丈夫と言ってくれ、二人で鞄の中を覗き込み土の中の宝物を掘り当てるようにしてなんとかぴったり揃えた。
「明日の日付で受け付けます」と取り計らってくれた職員の方に母はさっと名札の名前を読み「ありがとう~も~〇〇さんいい人!」と言った。職員の方ははにかみその場の空気は柔らかくワクワクもするような華やぎ。あ、そうそうこれなのよ、と思った。この人の凄いところは。
その後食事をしながら話していたら、母は全くお医者さんから言われたことを覚えておらず、なるほどこれは毎回付き添わねばと思いつつ、実家へ戻り、兄へ病院で言われたことを伝える。「そうなんだよこの人は」と母と同居の兄は言い、母は気まずそうにし、やはり認知症の検査をしないとと話す。
次の日目が覚めて「いや、母のああいうところは素晴らしいし、そのおかげで人付き合いの下手な私達家族はなんとかやってきた」と思い、すぐさま母へ電話して本人に向かって褒めちぎった。大絶賛した。昨夜兄と二人で母の「できなくなっていること」にやいやい言ったのはとてもよくないと思った。
おそらく認知症の初期である母は反発と萎縮を感じ、もっと認知症は進むのではないか。反対に賛辞と感謝は認知症の進みを遅らせるのではないか。なんの専門家でもない私が、生き物の本質を思った時に感じる。アルコール依存症でもう確実に認知症の父もそうだ。
「介護」という言葉には何か一方的で、「介護」する側の傲慢のようなものが漂う。「子育て」にも似た違和感がある。動物を飼う場面にも見受けられることがある。「一見するとやさしさ」にくるまれた中に「一方的な力関係の誇示」を感じる。
先日の母を見た時、「ああ、この人から学ぶことはまだたくさんあるのだ」と思った。まったくもって「介護」などとは何様なんだ自分や兄は。ただこの世に存在するひとつの生き物どうしとして、親たちと、またその他の存在すべて(人間以外も)と、接していきたいと思った。