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あれはいつの日かの私 梅若実『鸚鵡小町』を見て

2020.2.11(祝) 大阪の大槻能楽堂・リニューアル記念特別公演にて、梅若実さんの『鸚鵡小町』を見てきました。
(お能に関しては、ただただ好きで見ているだけの一ファンですので以下、感想としてお読みいただけましたら幸いです)


老女をシテ(主役)とするお能は「老女物」といいまして、『卒塔婆小町』『姨捨』など五曲あるのですが、いずれも重い扱いの曲とされています。

『鸚鵡小町』もその中のひとつ。100歳の老女となった小野小町が主役です。

今回、この公演のチケットを取ろうと思ったのは、まず『鸚鵡小町』という曲を見たかったから。
そして、シテの小町を人間国宝・梅若実さんがおつとめになるから。
そしてもうひとつの大きな理由が、松田弘之さんの笛だったから。

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初めて松田弘之さんの笛に接したのは2014年、片山幽雪さんがつとめられた『野宮』でした。
これから確実になにかが起こりそうな、ドラマティックで官能的な笛の音色にぞくぞくっとしたのを覚えています。


今回も、開演前に幕の奥から聞こえてくる笛の音を耳にしたとたん、意識がビュンと時を超え、能楽堂を飛び出し、はるか彼方、小町が住んでいたころの近江の国・関寺あたりへ。
まんまと連れていかれてしまったのです。

能楽堂のイスに座りながら、はるか彼方の世界を見せてくれる。
松田弘之さんの笛の音は、わたしにとっての5Gなのであります。


舞台が始まり、笛・鼓・大鼓の音が、舞台にふりつもるように響いてゆきます。
ややあって、ゆらりゆらりとあらわれる100歳の小町。
むかしの栄華はどこへやら、いまは物乞いをしているとあって、全体的に土色で華やかさはまったくありません。

そして、100歳の歩みは遅い。
この『鸚鵡小町』の登場人物はたった二人。シテの小町と、都からやって来た帝の使者・新大納言行家だけなのですが、ゆっくりゆっくり舞台にあらわれた小町と行家とが会話を交わすのが、上演開始35分たってから。
遅い。あまりにも遅すぎる。

わたしの隣に座っていた20代前半とおぼしき男性は、あまりのスローペースに耐えられなかったのか、この段階で席を立ってしまいました。
「いまからやのに、勿体ない!」と思わないでもなかったのですが、でもそうですよね。ふだん、YouTubeで3分や5分単位の動画を見慣れている目には、「なにも起こらないまま35分」って信じがたいし耐えられないですよね。

でもね。年齢を重ねると、この35分を経たふたりの会話に
「やっと会えましたね」
という滋味を感じてしまうのです。

使者が小町に、帝からの歌を手渡します。
(ここで小町が「老眼で見えないから読んで」と頼むのですが、このころから「老眼」という言葉があったことが驚きです)
帝の歌とは、すなわち

雲の上は ありし昔に変らねど 見し玉簾の 内やゆかしき 

小町よ、宮廷のことが恋しくはないか、と聞いているのです。

それに対して小町は
「ただ一文字、『ぞ』にて返歌します」。
使者は
「一文字て! 年取って頭おかしなったんちゃうか」
と思っちゃうのですが、以下、小町の返歌。

 雲の上は ありし昔に変らねど 見し玉簾の 内ぞゆかしき

そりゃあ恋しいですわよ、と鸚鵡返しの技で歌を返すのです。かっこいい。

余談ですがこの「内やゆかしき、内ぞゆかしき」というフレーズ。
古典芸能ファンならどこかで耳にされたかと思うのですが、『義経千本桜』のすしやの段で、梶原が残していった羽織の裏に書かれていたのが、この言葉なのです。

そして、昔のことを思い出した小町は、うながされるままに装束をつけ、かつて見た業平のことを語り、舞を舞います。

ここで、わたしはてっきり記憶の中で若返った小町が、背筋を伸ばしてシャキーンと舞うのかと思ったのですが、舞台の上の小町はあいかわらず100歳のまま。老女のまま。

思い出という名の衣をまとい、記憶の杖にすがってよろよろと舞う。
その姿を見ながら思ったのです。

「あ。あれはいつの日かの私」だと。

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人間は老少不定。誰がどんな形で先に逝くかは分からない。
とはいえわが家の場合、19歳もの年の差婚である以上、わたしがあとに一人残される確率は限りなく高いといえます。
老後はおそらく、ひとり。

「ポルトガル、楽しかったね」だとか
「歌舞伎座で『浦里』がお芝居になったね」だとか
華やかな思い出や楽しかった記憶は、共に語る人のないまま朽ち果ててしまうか、一人で何度も反芻するうちに、カセットテープのように擦り切れてしまうのでしょう。

まだ想像でしかありませんが、老いの辛さというのは、身体のあちこちが痛かったり、容貌の衰えを悲しんだりすること以上に、自分の一部である記憶を共有しているくれる人、配偶者だったり友人だったりが、だんだんいなくなってしまうことなのかもしれない、と思ったり。

そんな自分の老いの姿が小町の舞と重なり、ボディブローをいっぱいくらったかのように打ちのめされたのです。

だけど。
案外ひとりを楽しめている自分もいるような気がします。
片手にさびしさ、片手に気楽さを抱えながら、ときに孤独におしつぶされそうになりながらも、それでも朝ドラ『スカーレット』のきみちゃんのように「ひとりもえぇなぁ」と言ってる自分もいるような気がするのです。
小町だって、庵に帰ってから「業平、かっこよかったなぁ」とニヤリ笑ってるのかもしれんよなぁ。






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