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10秒間の恋人 


 エレベーターの△ボタンを2連続叩く。

 1回だけでは反応しない可能性があるから、必ず2回押すことにしていたら、いつの間にか条件反射になってしまっていた。

 エレベーターの扉が開き、狭い個室に乗り込むと、5階のボタンを押す。

「す、すみませ〜ん!」

 エレベーターを閉めようとすると、駆け足の音が聞こえる。目線を上に向けると、若い女性が走ってくるのが視界に飛び込んでくる。

「おおっと」

 すぐさま開くのボタンを押す。3回押したのが効いたのか、扉は閉まる寸前で立ち止まり、再開する。

「す、すみません、ありがとうございます」

 荒い息を吐きながら、ぺこりと頭を下げられる。

 一言で言えば綺麗な女性だった。
 走った後なので、やや乱れてはいるものの黒くて長い髪に、童顔傾向のある若々しい顔つき。
 そして、パリッとしたスーツや鞄は新調したもののようで、傷やほつれなどが一切見えない。

「なん……」

 何階ですか……と、尋ねようとする前に、彼女は手を伸ばして4階を押す。

 エレベーターは無機質な音を出し、扉が閉まるとゆっくりと上がり始める。

「……」
「……」

 無言に支配された空間。

 かといって、スマホを開いてSNSを閲覧するほどの余裕はなく、直立不動のままエレベーターの扉が開くのを、ただ黙って待つのみ。

 長い。

 この日の10秒は、酷く長いものと感じられた。
 そっと彼女の方を見ると、目を閉じて呼吸を整えていた。

 やがて4階の扉が開く。

「……」

 彼女は黙ったまま、こちらに頭を下げるとエレベーターから出て行く。

 彼女の姿が見えなくなるよりも先に、扉が閉まり5階に上がる。

 なんのことはない。
 いつも繰り返されてる日常に、可愛らしい女性が乗り込んできただけのこと。
 そう、なんでもないのだ。うん。
 やがて5階の扉が開き、エレベーターから出る。

 △


『アンタ、そろそろ結婚しなさいな。もうすぐ30でしょう?』
「ははは……かもねぇ」

 母との電話を切り、エレベーターのボタンを押そうとすると、既に黄色に点灯していた。

「お疲れ様です」

 電話中で気づかなかったが、すぐ隣には昨日の彼女が立っていた。

「ど、どうもお疲れ様」
「今日も会いましたね」

 軽く会釈すると、はにかむように笑う彼女。
 可愛い……なんて思っている間に、まるで割り込むようにエレベーターの扉が開く。
 彼女の後に続いてエレベーターに乗り込み、それぞれの階層ボタンを押す。

「……最近、引っ越してきたの?」
「はい。社会人と同時に、一人暮らしもデビューしました!」

 どうです?すごいでしょ?と言わんばかりのドヤ顔を浮かべる。

「そっかあ、君の……」

 名前は?と聞こうとしたところで、4階の扉が開く。
 エレベーター内の時間とは何とももどかしいもので、何も話さないには長すぎるし、何か話すには短すぎる。
 名前はまた今度聞けばいいかと、口を紡ごうとすると、閉まろうとする扉の前で振り返り、

「新島です。新島朱里」

 その時の笑顔は、俺の冷え切った心を動かすには十分すぎた。

 △

「あっ、早く乗ってくださーい」

 僕がエレベーター付近に差し掛かると、それに気がついた彼女……いや新島さんは慌てて開くのボタンを押し手招きしてくる。

「ごめんごめん、ありがとう新島さん」
「いえいえ。高田さんは5階ですよね?」
「うん……って、あれ」

 新島さんの方を見る。

「俺、新島さんに名前教えたっけ?」

 前は彼女の名前を聞いただけで、俺の名前を言った覚えはない。
 そう尋ねると、彼女は、

「どうして知ってると思います?」

 ふふっと、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「えぇと……」

 考える暇もなく、エレベーターは無機質な音を立てて4階の扉を開ける。

「時間切れです。答えは郵便受けです〜」
「あっ……」
「では、お疲れ様です〜」

 したり顔を浮かべ、びしっと敬礼して、そそくさと降りていく新島さん。

「なるほど、郵便受けね……」

 あれ、それなら俺の部屋番号はどうやって知ったんだろう。
 もしかして、見られてたり……まさかね。

 △


「お疲れ様です高田さん。5階押しておきました」

 エレベーターに乗り込むと、新島さんがえへへと笑いかけてくる。
 彼女とエレベーターで会うようになってから随分と気分が晴れやかになった気がする。

「高田さんは、ここに住み始めて何年ほどなんですか?」

 この日は、新島さんの方から話を振ってきた。

「俺?俺は今のとこに就職してからだから……6年だな」
「おおお、思っていたより先輩でした」

 思っていたよりとはなんだ。そこまで俺はガキっぽい外見ではないだろう。

「そんな先輩として、このアパートのことを教えてやろう」
「?」

 もはや疑問符を頭に浮かべる余裕すらなく、すぐに答えはエレベーターが教えてくれる。

「ここのエレベーターは、ボタンを2階押さないと、時々反応しないんだ」
「え……あ、あぁーっ!!!」

 新島さんの止まる階層、4階のボタンは反応しておらず、彼女を乗せたまま5階の扉が開く。

「酷いです!知ってて教えなかったんですね!?」

 ぽかぽかと胸を叩かれる。

「悪い悪い。俺も今気づいたんだよ。じゃ、お疲れ」

 新島さんはむすっとした顔のまま、下の階に降りていくのを見届けると、小さくため息をつく。

「確かにガキっぽいな……俺」

 本当は最初からボタンが反応していないことには気づいていた。
 たとえ1階層分だけでも、長くいたかったから、黙っていたなんて言えないわな。

 △

 それから俺と新島さんは、仕事終わりにエレベーターでよく話す仲になっていた。

 だから1日のうち一緒にいられる時間は、約10秒。
 初めて会った日は、あんなに長く感じられたのに、今では短くて短くてもどかしい。

 できることから全ての階層ボタンを押して、少しでも長く一緒にいたい。


 △

「あ!ストップストップ!」

 俺がエレベーターに乗り、扉を閉めようとすると彼女が走ってくる。

「よし、滑り込みセーフ!」
「俺が『開く』のボタンを押さなかったら普通にアウトだよ」

 4階のボタンをしっかりと2連続で押し、光っているか確認した新島さんは、ふぅと息をつき、少し乱暴にスーツの上着を脱いで肩にかける。

「脱ぐの早すぎだろ」
「こんなバッカみたいに暑いのに、スーツは通気性が悪すぎます。お陰で汗だくです」

 たらりと彼女の首筋から、一滴の汗水が胸元にかけて流れる。

「今日は残業だったの?」

 俺も今日は居残りでだいぶ遅くなったはずなのに、こう会えたってことは残業か飲み会だったのだろう。

「今日『は』じゃないです。『も』です」

 腕を組んでむすっと頬を膨らませる彼女。

 やがて4階でエレベーターが開き、新島さんは会釈して去って行った。

 △

「あー、やっちまったぁ……」

 白目を剥いて首も座らないまま、ふらふらとした足取りでエレベーターに乗り込む。

 プレゼンで盛大にやらかした。
 残業してまで仕上げたプレゼン資料は、きちんとデータ更新ができておらず、1番最初に作ったメモ書き同然のような資料を配布してしまった。
 同然、同僚や先輩から「お前何やってんだ!」と叱責をくらったのは言うまでもない。
 いや、怒られたことよりも、あの時の自分の不甲斐なさが憎くて、あまりの情けなさにこのままエレベーターの一部になってしまいたい気分だった。

「……よく頑張りました」

 暖かくて小さな手が、頭に乗ったような気がする。
 顔を上げると新島さんが、俺をよしよししていた。
「……に、新島さんっ!?」
「その様子だと、私に気づいてなかったんですね」

 自分しか見えていなかったため、驚きに唖然としていると4階に辿り着き「お疲れ様です」と微笑みながら降りていく彼女。

 落ち込んだ俺の作り出した幻覚……ではないよな。

「……バカ、社会人1年目のお前の方が大変だろ」

 監視カメラの方を眺めながら、ぼそりと呟いた。

 △

 それから、寒い冬がやってきた。

「さっむ……」

 震える指でエレベーターの△ボタンを押す。エレベーターの周りには、ピカピカのイルミネーションが施されていた。今日はクリスマスイブだ。
 エレベーター内も同様で、サンタクロースやらトナカイのシールが貼られていた。

「あ、待って待ってぇえっ!」

 ドタドタと足音が響き、顔を上げると着崩したスーツも気にせず走ってくる彼女の姿があった。

 彼女が乗ったのを確認すると、5階を押す。

「今日は予定あるって言って、残業せずに無理矢理帰ってやったわ」
「ははは、社会人の生活が分かってきたな?俺も同じだ」

 2人で笑い合う。

「さて、今日は飲み明かすわよ」

 スーパーのレジ袋から、缶ビールを取り出してニッと笑う朱里。

「ははは、だな」

 階層が4階に差し掛かるが、エレベーターは止まることなく5階で止まり、扉が開く。

「ケーキは買った?」
「ああ、もちろん」

 朱里は白い手を差し出してくる。握り返すと、ひんやりと冷たい感触が襲うが、それでも心地よく、暖かく感じられた。
 5階で開いた扉を、朱里と一緒に出る。

 普段、彼女といられる時間は10秒。


 だが、この日は10時間延長だ。

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