私たちの受動的ナルシシズム
「人間らしい生活をしたい」これが私の夢だ。
でも人間らしい生活ってなんだろう?
いろいろな意見があると思うが、今私が思っている人間らしい生活とはこうだ。
人間らしい生活とは自分の生活に関わっている人、もの全てを把握し、自分の元にそれらが流れてきていることに礼節を持って生きること。そして、いつか他の人の元に流れていくそれらを愛を持って見送ること。
私たちの生活はあまりにも豊かになりすぎて、今持っているものがどこから来て、どこへいくのか知らない。関わる人たちもそうだ。私たちは忙しすぎて自分以外の人のことを考える余裕がない。関わるその人がどこから来たのか、どこへいくのかではなく、その人が「私のために」何をもたらしてくれるかしか考えていない。
考えないのは楽なことだ。全て自分に帰ってくると考えて、今自分がみているものだけにフォーカスすれば、自分中心に世界が回っているかのような感覚に陥るだろう。断片的に見れば、自分中心の能動的な世界のように見える。自分が行動しただけ自分の世界は変わるし、自分が行動しなければ何も変わらない。しかし、果たしてこれは能動的と言えるのだろうか?
私はこれは受動的ナルシシズムだと思っている。私たちは「自分が何かしなければならない、自分こそがそれをできる」という暗示的なナルシシズムをなんの疑問も持たずに受け取り、そのフローに乗じている。つまり、現代においてナルシシズムは静かにイデオロギーとして浸透している。全ての人の中に揺るぎないナルシズムがイデオロギーとして蔓延し、ナルシズムの範疇では予想もつかないことは起こらないのだ。なぜなら、全て「自分で」どうにかできるのだから。多くの人が、こんな世界線で生きているような気がする。全てがナルシシズムというベルトコンベアーにのかって、永遠に止まらない歯車の中に巻き込まれ続けるのを享受する世界。
しかし、果たして世界には自分でどうにかできることばかりだろうか?そんなわけはない。まず、私たちが生まれてきたこと自体自分でどうにかしてきたことではないのだから。私たちの人生だってそんなものだ。生まれたら、次なる生命としての分岐点は死である。これは誰しもが通らなければならない通過点としてあらかじめ用意されていて、誰も逃れることができない。
自殺というのは、もしかしたら「自分でなんでもできる、いや、なんでもしなければならない」というパニック状態から起こる私への飛び込みなのかもしれない。自分でどうにもできないしが訪れることが怖いから自ら新たな生命の分岐点へと焦ってしまう。そう考えると私が抱えてきた希死念慮も説明がつくようなする。話が逸れた。
とにかく、私たちの世界には自分でどうにかできることは実は驚くほどに少ない。科学技術の発展で、多くのものがコントロールできるようになったが、それらが持続可能ではないがために、私りがたちは何度目かの社会変革を求められている。
受動的ナルシシズムは、とてつもない何か予想もつかないことが起こった時に、頼る相手が自分しか思い付かないという危険性を孕んでいる。「自分で今までどうにかしてきたのだから、今回も自分がどうにかしなければ。」と。しかし、エネルギーもやる気も希望もない自分にどうやって頼って絶望の淵から起き上がれるだろうか?
自分でどうにかしているのではなく、今私が享受しているものが、たまたま私という生命体に流れてきている、そしてこれから流れていくという考え方はできないか?自分自身で引き寄せたと考えるより、向こうから来たと考えると、去っていくのも恐ろしくない。何か悪いことが起こった時もたまたま私の元に来て、そして去っていくのだと考えられると気楽なような気がする。死も同様に捉えられる。私の元に死が来る、そして去っていく。魂は生きているうちだけではないはずである。肉体が死んで、それからまた新たな生命の分岐点へと向かっていくのだ。もちろん私たちは死の先に何があるのかまだ知らない。知り得ない。だから、たまにはそれがくるのを待ってもいい。
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