自己紹介とおいたち

名前:あかね

年齢:アラサー

一般企業のOLとして働いています。
中学生の時にパニック障害と診断(特にパニックになったことがないので誤診?)
高校卒業後一人暮らしをし、派遣社員としてコールセンター勤務。
人員不足により、正社員と同じレベルの仕事を行うようになり身体を壊して退職。

その後別会社で正社員として勤務中。
前職の無理がたたり、抑うつ状態と診断され休職。
復職後メニエール病発覚。
今生きるのがつらいです。

〜おいたち〜

父は浮気性・ギャンブル好きな嘘つき、
急に大手会社をやめてきたと思えば、会社の資金を使い込みしていたことがバレたとのこと。

母は裕福な家の出身で、普段は穏やかな人ですが
生活苦からスーパー銭湯の浴槽清掃等パートを深夜に始めました。
そんな中でもギャンブルが辞められない父。
子供たちに喧嘩を聞かせたくなかったようで、
喧嘩する時は決まって深夜のリビング。

聞かせたくない割には声が大きく、
当時小2の私は父が母を殺してしまうのでは?と怖くなり
泣きながら布団の中で震えていたのを覚えています。

次第に母は精神を病み、病院に通うようになります。
その頃から母は、父となにがあったか・以下に父が酷い男なのかを私に話すようになりました。
(相当追いやられていたんだな、とは思いますが聞かされる子供の身にもなってほしい…)

しばらくすると、父の部屋の本と本の間から1台の携帯が見つかります。
不倫相手との連絡専用携帯でした。
母は激怒、私と弟を連れ飛行機で母の地元に行きました。
祖父は他界済、祖母は統合失調症のため施設。
行くあてもなく、母の地元のホテルに泊まりました。(2泊くらい?)
結局数日して家に帰ることとなりましたが、これが1回目の家出。

2回目の家出は、母に内緒で借金をし車を新調。
しかも不倫相手と選んだことがバレ、また私と弟を連れ
飛行機で地元へ。
今回は単身赴任で地元に来ていた叔父が泊めてくれました。
冬休みだったということもあり、3週間くらい泊まった記憶があります。
家に帰る際、自宅近くのJRの駅まで父が迎えに来ていましたが
デリカシーの欠けらも無いので新しく買った新車で登場しました。
真っ赤な大きい車で、母は愕然とし弟派喜び。
私はいろいろ母から聞かされていましたが、あぁこれが女と選んだ新しい車か、としか思えませんでした。

3度目の家出。これが一番印象に残っていて、今の私のトラウマです。
何らかの事件があり、(2回目の横領だったかな?)夜に大喧嘩。
耐えられなくなった母は家出。


今回は私も弟も置いていかれました。

ショックでしたが、まず心配だったのが、このまま母が死んでしまうのではないか、
ということ。
徒歩での家出だったこともあり、翌朝には帰ってきていましたがそれが尚私の不安を煽る。
小学校に行っている間にまた出ていかれるのではないか、という不安と
死んでいたらどうしよう、という不安が入り交じり、
小学校が終わるといつも一緒に帰る友達を待たず、
遅く持久力もない私がダッシュで家に帰りました。

3度目の家出については今でもトラウマで、
喧嘩中や喧嘩後に家から出ていかれるとパニックを起こします(切実に治したい)

上記のこと以外にも鮮明には思い出せませんが
家賃が払えないなど色々とありました。

すべて母が私に話してくることもあり、小学生にはキャパオーバー。
私も精神的に病んでいきます。

まず爪噛み。両手指はもちろん両足指もです。
ベッドの木製の手すりも噛みまくり歯型だらけ。
痛いことは嫌だったので、リストカットはしませんでした。

一番症状が出ていたのが不眠です。
いつ喧嘩が始まり、いつ置いていかれるかわからない。
そう考えると眠れなくなりました。
次第に水道管の音、家の近くを走るパトカー・消防車の音に過敏になり、
家が火事になったらどうしよう、この音は燃えている音なのでは??と不安になり
さらに眠れなくなります。

幸い仲の良いお友達がいたので小学校には通ていましたし、
放課後も遊び、学校生活は楽しく過ごすことが出来ていました。

ある日、母の運転する車で少し離れた本屋へ向かっている時です。
ふと窓から外を見ると見覚えのある黄色いTシャツを着た男性が赤ちゃんを抱っこして女の人と歩いています。


父でした。


父はちょっとしたお出かけのとき、ほぼ必ず同じ黄色いTシャツを着ます。
知らない女の人、知らない赤ちゃんを抱いて楽しそうに笑っている父を見て、ショックでした。
母に言ったら今度こそ母が死ぬか父が殺されるかもしれない、
また置いて出ていかれるかもしれない、という恐怖で
言い出すことが出来ませんでした。
今現在もこの件は伝えていません。今伝えたところでどうにもならいないし…。

見たことは私の中で秘密にしよう、と決心しました。
その日から爪噛みや不眠が悪化しましたが、
家庭内では喧嘩も減り、落ち着いたかのように見えていました。
(私の名前を書くところに全く違う名前を書かれるなど、まぁいろいろありましたが)

が、私が中学に上がるタイミングがちょうどいい、ということで
あっさり両親は離婚しました。
母に引き取られた私と弟は母の地元に引っ越します。

引越しの話の時には、
「しばらく離れて暮らして、父が落ち着いたらまた戻ってくる。だから大切なものだけ荷物に入れなさい」
と言われ、最低限の荷物で飛び出しました。


これは友達と離れがたく、引越しをしたくない私へ向けての嘘でした。

母の気持ちを考えれば嘘もつきたくなる気持ちもわかりますが、
真に受けて大切なものだけを持ち、引越しをした私の
真実を知った時の気持ちは考えてくれなかったのでしょうか。
色々と父に対する愚痴は聞かせておいて、そんなことありますか?と子供ながらに思ったことを覚えています。

父とは引っ越したあと1回誕生日プレゼントが送られてきました。
その後は音信不通でしたが、20歳になった年に
父と父方の祖母連名でお祝い金が届きました。
封筒は確実に祖母の字でしたし、父からのお祝いでは無いのはわかっています。

お礼の電話くらいは、と思い母から父方の祖母の電話番号を聞き出し(母はめちゃくちゃ嫌がってました)
電話でお礼を伝え、父にもお礼をしたいからと番号を尋ねたところ
父の電話番号は教えるなと言われているから教えられないんだ、と祖母に言われたました。

父と話したいわけではなかったので、ラッキー!と思いつつ、
私の代わりにお礼伝えておいてくれる?とあっさり引き伝言を頼んだところ
何故か大人になったね、えらいね、と褒められ、(祖母もこんなにあっさり引かれると思ってなかったんでしょう)
電話を切りました。

その後祖母とも連絡は取っていませんが、弟の20歳の誕生日にもお祝い金が届いたそうなので、おそらく存命しているのかな?と思います。

ちなみに、このお祝い金の一連の流れを母に伝えたところ、
実の娘に連絡先を教えないとはどうなっているんだ!!と怒り狂い、
数年たった今でも愚痴愚痴しているので一切話には出さないようにしています。

初めてきちんと小学生時代を振り返りましたが、
もう少しまともに生活ができていれば
今とはまた違った人生になっていたのかな、と思います。
まぁもう遅いんですがね。

この時期の経験が今の人格形成に繋がっていると個人的には思っています。
また気が向いたら中学〜今まで のことでも整理してみようかな。

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