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名前が嫌いだった。私は。
私の名前はこのnoteにある“あかね”といいます。漢字はシンプルに茜ですが。
子どもの頃はこの名前が大嫌いでした。
父はわたしが生まれた時のアカネ空が綺麗でこの名前をつけたなんて言ってましたが。
大人になって、姓名判断の辞書にわたしが生まれた年からこの茜という漢字が名前として登録されたらしい。
“あ”から見て始めにあったからなんて言われたこともありました笑😆
なんだそれ。って思ったりした。
なんで嫌いか。
①まず親に名前で呼ばれた記憶がほとんどない。
→これは私たち世代あるあるで
長女だった私は“おねえちゃん”と呼ばれ育ってきた。
だから、学校や必要書類には良く書く名前であるが
音であまり馴染みがないから
なんか抵抗感があった。
さらには、親から怒られる時だけ名前で呼ばれた記憶もあるから嫌悪感の様な気持ちがあるのだろう。
② これが一番かもしれないが。
この“あかね”って名前と私の雰囲気が違うなぁといつも思っていた。
これは、上の理由が重なりそう感じたのかもしれないが
人に名前をいうと
だいたいの方が
“あら。かわいい名前ね。”と言ってくれたが。
わたしはかわいいなんて思ったこともなかったから、その言葉を言われるたびになんか
勝手に傷ついていた。
まぁ、
全ては私の勝手な判断であるが。
しかし、今から6年前にとあるFPさんと出会い
彼女は最初から私を“あかねさん”と呼んでくれていた。
結婚はし、名字は変わっていたが。
この方に自然に“あかねさんは”と言ってもらえた事になんか恥ずかしながら
始めて私の名前を使ってみたかのように
嬉しく思えた記憶がある。
あんなに嫌いで友人達からも“あかね”に関する名前で呼んでもらった事はなかったのに。
こう自然に呼んでくれた彼女に再度名前に命をもらえた機会になったようだ。
わたしはそこから、自分の名前を使い始めた。
あんなに人前に出ることも、意見をいう事も
あまり好きでなく
私の考えあってる?
どう思う?
へんじゃない?
なんて他人の評価がどうしても気にして前に進めなかったわたしは、少しずつ薄くなり
この様にアウトプットをするようになった
人がどう思うかは
気にしても
人をコントロールすることはできない。
これを理解できる様になったのかもしれない。
アドラーを学びより、考え方は変わってきた。
今は自分が発信したい事ややりたい事に力を注ごうと
だからわたしは“あかねです。”という名前を大事にしていきたいし
あまり関係の良くない親だが、今は
この名前をつけてくれた事に感謝している。
まだまだやりたい事をやってみようと思っている。