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私の中の「普通」を大切にする

「あなた、コップ多いよね」とパートナーが洗い物をしながら言った。私はなにが言いたいかすぐに分かった。

私はしょっちゅう新しいコップを使い、その結果、洗い物として出るコップの数を増やすという事態を日常的に起こしている。日中に私が生み出す洗い物のコップは2〜3個程度であるが、それは彼にとっては「多い」らしい。

私の実家では、一杯お茶を飲んだら、洗面台にコップを置き、また次の一杯、というように、洗い物としてのコップをどんどん増やしていくことがを許されていた家庭だった。それが彼にとっては、ただ洗い物を増やす無駄な行為に見えるようだ。もちろん、物が少ない方が合理的だとは思うが、私はそのときの気分に合わせて、コップを選ぶ楽しみを味わっている。コップをたくさん使うのは私にとっての「普通」なのである。
あなたの「普通」を私に押し付けないでくれ。

自分の中の「普通」と他者とのずれ

最近、特に「自分の中の『普通』を大事にする」ということが今の私にとても大事だと感じている。というのも、それ以前に私は、「無意味に人と比較して自分を苦しめる」という癖があるということに気づいたからだ。

例えば、30半ばを過ぎていまだに博士課程なんかに所属している私は、同期が非常勤講師として働いていたり、アーティストとして世界で活躍しているのをみて、自分と比較し、「自分はダメなんだ」と思い込んでしまうことがある。
また、著名人の30代半ばの功績と比較して、「あ、この人はこの年齢にこんなことを成し遂げている」とショックを受けることもある。
こうした比較は、厳しい状況・これではいけないと思う状況を自分自身に与えることで、現状を変えようとする意識を奮い起こしているのかもしれない。だけども、自分自身を傷つけ、自虐的な行為のようにも感じる。

「普通」を大切にするとは、自分を磨くこと

話を少し変えて、最近とある筋トレ女子(!)ユーチューバーのYouTubeを見ていた。「誰かと比べて自分は痩せてないと思う人」に向けて彼女は「ダイエットの目的は、自分磨きであって、人と比べることは本当は違うんだけど」と語っていた。
それは本当にそうだと思う。大切なのは自分磨きを楽しむ工程であったり、その過程で得た、気づきを自分のものにしていくこと。結果はその後についてくるもの。

「比較する」というのは、自分の欠点をとにかく洗い出しやすい。比較することが決して悪いことではないとも思う。しかし、欠点を見出したところで、あまり解決へ導く要因にはならない。なぜなら、その他者との比較は所詮、世の中の「普通」といった枠組みに自分を合わせようとする行為にすぎないからである。そして、自分磨きを楽しむというプロセスを妨害し、自分の精神をすり減らすからだ。ここでの比較は徒労として終わる。

本当に大事なことは、自分の良いと思ったことを磨くこと、なのである。

誰しも各々が持っている「普通」は人と異なるものだと思う

私は、自分の「普通」は世間一般の常識や「普通」とはおおよそかけ離れたものだと確信している。これまで私は、シンプルに「自分のやりたいこと」に対して、あえて状況を複雑にして、作品制作などを通じて、自分の行動を世間一般の「普通」の感覚から「すごい」と思わせようとしてきたと感じている。こうした努力は、自分の他者とのずれを埋めようとする必死な試みであり、傷つきたくない自分を守る行為だったのだ。しかし、その「普通」との比較を続けることで、苦しみが生じ、「もっと頑張らければ」と意気込むようになり、その結果として自分らしさを見失ってしまう状況を招いている。私は無意識のうちに、世間の「普通」に縛られているのである。

だからこそ、「他者の目から見たら『こんなもの』だろうけど、私にとっては大事な『普通』」の感覚を大事にしていきたい。

自分磨き、というのは、宝石の原石をコツコツを研磨していくように、孤独で地味で努力と気合のいる工程なのかもしれない。しかし、その中で、パッと明るく輝く、自分の中の「普通」を見つけす瞬間がある。それは、私の個性であり、本当の自分自身の輝きなのである。

もしこの記事を読んでくれて、同じように比較することで傷ついている、頑張って真面目な誰かに、共感を得られたら嬉しいと思う。

そして、コップの数の件。これはこれで、パートナーの尊重すべき「普通」なのだろう。あのときは、私は自分の「普通」を「理解して!」と主張してしまったが、これからまた少し話しあって、彼の「普通」にも寄り添えていけたらと思う。

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