スクールアイドルに捧げるハムレット【蓮ノ空ラブライブ!大会】
死ぬとは、眠ること、それだけだ。
そして一度眠れば、心の痛みも、
この身体がうける数限りない衝撃も、
一切が終わりになる。
これが悩める少女が渇望する最後の極致だ。
死ぬことは、眠ること。
しかし眠れば、たぶん少女は夢を見るだろう。
ああ、ここで躓くのだ。
この青春のしがらみを脱ぎ捨てた時、
愛に飢えた眠りのなかで、
どんな夢が訪れるのか分からない、
これがあたしたちを躊躇させているのだ。
ここにこそ、長い不幸な人生を
忍んでいる理由があるのだ。
誰が世間の鞭と嘲笑に耐えるだろう?
未熟者の憎悪に、傲慢な大人の無礼に、
叶わぬ恋の傷みに、友情の蹉跌に、
逃れられぬ運命の横柄さに、
そして下劣な連中の描くプロットに、
どうして耐えるだろう?
あなたのその一言だけで、
この人生におさらばできるのに――。
実直に申し上げるが、私は、この度のラブライブ!全国大会に於いて、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの敗北を望んでいる。
こんなものが出来ました、というより他に仕様が無い。唯だ、健脳な読者諸君に予めお断りして置きたいのは、この怪文書が「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」という作品を、将又その登場人物たちを貶める意図は全く無いのであるし、シェイクスピアの『ハムレット』の註釈書でもなし、または、文学界に奇説を打ち立てるべく挑んだ新解釈の書でも決してないという事である。私の二次創作の取り組みを覗いて頂ければ一目瞭然の事実かと存じるが、我が沙翁への崇拝に劣らぬほど、私は同作品の大ファンなのである。この駄文は、矢張愛に狂ったオタクの勝手な、創造の遊戯に過ぎないのである。人物の境遇と、だいたいの悲劇の構造だけを『ハムレット』から部分的にその精神を拝借・解釈して、一つの青春の到達点について理想を語った。それ以上の、学問的乃至文学的な意味は、微塵も無い。狭い、心理の、或いは拙い、憎愛の実験である。加えて馬鹿正直に白状するならば、ライブやストーリーの感想文なんぞは誰にでも書ける、さすれば私は荊棘の小路を一歩二歩踏み分けてでも、おのれにしか書けぬ文章を書かなければならぬという強がり。そんな、ありふれた継子根性の結実。
ともすれば二十一世紀の大量消費社会に於ける、一群の少年少女が苛まれる青春めいた種々の葛藤の、典型の一端を書いた、とは言えるかも知れない。その、始末に困る少年少女らの葛藤を巡って、彼と彼女の(厳密に言えば、彼女らの)たった三年間の出来事を書くのが拙作『天華恋墜』本編である。同作を書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、構想三ヵ月にして脱稿した。然しこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、殆ど約十年間を要したと謂える。「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」という作品が生まれる前からの、私の面白くもなんとも無い人生経験と理想とを反映した作品を志しているが、而も中途にして思考が蹉跌し、前に進むことができなくなった。なぜならそこには、どうしても認識の解明し得ない、困難の岩が出て来たから。
マクベスでもリア王でも一度読んだだけでは見落し易い心理の経緯もあるように思われるのだが、とはいえこの感想文は勿論、我が二次創作はそんな、二度も三度も読むひまなんか無いよ、と言われると、それっきりである。お暇のある読者だけ、なるべくなら一読して、そしてこの感想文にも目を通してみて下さい。「蓮ノ空」とその二次創作活動を通して私が学んだ、青春乃至異性恋愛の機微というものを、此処に改めて文字化させていただくという、そのような感想文に仕上がっている。また、余るほど暇で困っているというような読者は、是非この機会に、もう一度沙翁の『ハムレット』を読み返し、この「新ハムレット」と比較してみると、なお、面白い発見をするかも知れない。
私もこの感想文を書くにあたり、坪内博士訳の『ハムレット』と、それから、浦口文治氏著の『新評註ハムレット』だけを一通り読んでみた。浦口氏の『新評註ハムレット』には、原文も全部載っているので、辞書を片手に、大骨折りで読んでみた。この時点で既に「蓮ノ空感想文」の枠組みを逸脱したと薄々感じていたが、兎角いろいろ得た技巧上の新知識も、いまそれを、ここでいちいち報告する必要も無いだろう。然し敢えて一点言うとすれば、改めて坪内訳を通読して、沙翁のような芝居は、矢張博士のように大時代な、歌舞伎調で翻訳せざるを得ないのではないかという気もしているのである。さて、改めて『ハムレット』を読むと、矢張天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の一人ひとりの足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。我が拙きこの「新ハムレット」などは、微かな室内楽に過ぎないから、どうか酒を片手にでも流し読みしていただきたい。なおまた、『ツキマカセ』の歌詞に触発された作者は、あの『恋愛論』を少しあくどく、或いはロマンチックに潤色してつくり上げた気もする。スタンダールの霊にもお詫びしなければならぬ。以上のくどくどした述懐を宥恕にして傍観いただけるのであれば、私のしどろもどろなる理屈にどうかお付き合いいただきたい。
冗長になるといけないので、冒頭の主張に至った論理を先ずは端的に述べさせていただく。含羞すべきオタクの述懐で大変恐縮であるのだが、令和六年師走今日、私の「蓮ノ空」に対する姿勢は非常に不純なものであって、彼女たちは原作のキャラクターであると同時に自らの創作のキャラクターとなってしまった。原作ストーリーが辿る結末が否応なく史実となってしまうのは承知している。然し『天華恋墜』前文にて綴った如く、お断りとして、異性恋愛がない以上、如何にそれが原作でありホンモノとしての価値を独占していようとも、私にとってそれは、彼女たちの青春物語が迎えるべき「至上のハッピーエンド」とは決してなり得ないのだ。藤島慈、乙宗梢、夕霧綴理。恋を知らぬ彼女らの、三年間の高校生活の帰結。ひとつの夢の終着点。譬えそれが「優勝」であったとしても、それは私にとっては、異性恋愛の機微を欠くという一点に於いて徹底的に不十分で、未完成であるのだ。さればこそ、彼女らが「敗北」することにより、我が創作内で優勝させる意義が一層強くなってくる。謂わば「愛の力で優勝が出来た」という、ロマンチックで分かりやすい構図を描けるということだ(或いはここで、賢明な読者諸君は法華経にある化城宝処の譬え話を想起したかも知れない)。
さて、詳しい名前は伏せるが、日曜日の朝方に放映されている女児向けヒーロー番組に於いて、女の子がピンチの男の子を助けるという一幕を目撃した。少年自身は闘うことはできないが、好意を寄せる少女を陰ながら支え続けていて、告白された少女は悩みながらも彼との想い出を知覚し、噛み締めて、葛藤と友人からの声援の末に、結ばれた。二人の物語はこれから紡がれていくのでその結末を私は未だ知らぬが、矢張私は、こういったロマンチックな物語の方が好きなようだ。成人向け美少女恋愛ゲームでもそうなのだけれども、私は、青春を生きる少年少女たちがお互いを助け合うという構図を好む。過去や現実に囚われたヒロインを主人公が救い出し、恋が芽生え、主人公が苦しんでいる時はヒロインがその手を引っ張ってやる。こうした展開はヒロインの魅力を一層際立てるのだから。
その理由は、彼/彼女たちの、若々しい実生活の艶めかしさから生じた感動であるとも思う。ゲーテが『詩の真実』に曰く、「初恋が唯一の恋愛であると言われるのは、至言である。なぜなら、第二の恋愛では、また第二の恋愛によって、恋愛の最高の意味が失われるからである。元来恋愛を高め、恋愛をして恋愛たらしめるところの永遠と無限の観念が、第二の恋愛では既に破壊され、一切の反復する現象と同様に一時的なものに見えるようになる‥‥‥」と。恋愛は青春の時期にしか成し得ないものだと、私は考えている。とはいえ、青春再びかえらず、とはひどく綺麗な話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話ではないか!第一、うんざりしてしまう。こういう疲れ方は他の疲れとは違って癒し様のない袋小路のどんづまりという感じで、本音を言えば、イヤだ。
世阿弥が佐渡へ流刑のあいだに創った謡曲に「檜垣」というものがある。細いことは忘れてしまったけれども、荒筋は次のような話である。なんでも檜垣寺というお寺があって(謡曲をよく御存じの方は飛ばして読んで下さい。どんなデタラメを言うかも知れませんよ!)このお寺へ毎朝閼伽の水を捧げにくる老婆がある。いつ来る時も独りであるが、この老婆の持参の水が柔らかさは世の常のものではない。そこで寺の住持があなたは何処の何人であるかと尋ねてみると、老婆は一首の和歌を誦してこの歌がお分りであろうか、と言う。生憎この和歌を私はもう忘れてしまったが、確か「水はぐむ」とか何とかいう枕言葉に始まっていて、住持にはこの枕言葉の意味が判らないのである。この和歌にも相当重要な意味があった筈であるが、然し、物語の中心そのものではないのだから勘弁していただきたい。さてそこで住持が不思議に思って、この枕言葉は聞きなれないものであるが、いったいどういう意味があるのですかと尋ねた。すると老婆が答えて言うには、その意味が知りたいと仰るならば何とか河(これも忘れた。近日中に現地へ行かねばならぬ)の畔まで御足労願いたい。自分はそこに住んでいるから、そのときお話致しましょう、と帰ってしまった。翌日(ではないかも知れぬ。もともと昔の物語は明日も十年後もありゃしない)住持は何とか河の畔へ老婆を訪ねて行ってみた。と、なるほど、一軒の荒れ果てた庵があるが、住む人の姿はなく、また、人の住むところとも思われぬ廃屋である。すると姿のない虚空に老婆の恐ろしい声がして、いざ、私の昔を語りましょう、と言い、自分は、昔、都に宮仕えをして楽しい青春時代を送ったもので、昨日の和歌は自分の作、新古今だか何かに載っているものである。自分は年老ゆると共に、若かった頃の美貌が醜く変って行くのに堪えられぬ苦しみを持つようになった。そうして、そのことを気にして悩みふけった挙げ句に死んでしまったが、そのために往生を遂げることが出来ず、未だに妄執を地上に留めて迷っている。和尚様においでを願ったのも、有難い回向をいただいて成仏したいからにほかならぬ、と物語る。そこで和尚は、いかにも回向してあげようが、先ず姿を現しなさい、と命令し、老婆はためらっていたが、然らば醜い姿で浅ましいがお目にかけましょうと言って妄執の鬼女の姿を現す。そこで和尚は回向を始めるのであるが、回向のうちに、老婆は在りし日の青春の夢を追い、在りし日の姿を追うて恍惚と踊り狂い、成仏する、という筋なのである。
北海の孤島へ流刑の身でこんな美しい物語をつくるとは、世阿弥という人の天才ぶりに降参せざるを得ない。ところで話はそういうことではないのだが、何故こんな老婆にご登場頂いたかと謂えば、私がこの物語を初めて知ったのは、まだ大学生の頃。生れて初めて、謡曲というものに激しい感動を現した人との想い出である。私にこの老婆の生き様を語ってくれた、二歳年上のお姉さんは多才であったが伝統芸能のファンでもあり、頻りに観能に出かけ(二人で行ったこともたった一度だけある)、私が文学として読んではいても舞台として殆ど観たことがないので揶揄い半分に意見を交わす始末になったが、女の人は誰しも老醜を怖れること男の比にはならないのであろう、彼女が物語を聴いている時の驚きの深さは私の頭を離れぬことのひとつであるのだ。いまでは子供を持つくらいの年齢になられているお姉さんも、当時はモデルとして働いて人目に晒される職分であったから、鬼女の懊悩が実感として激しかったという意味もあろうけれども、失われた青春にこんなにハッキリした、或いはこんなに必死な愛情を持ち得るということで、私は却って女の人が羨しいような気がしたのだ。この羨しさは、毛頭私の思いあがった文学理論から湧き出る気持ちからではないのである。
女の人には秘密が多い。男が何の秘密も意識せずに過ごしている同じ生活の中に、女の人は色々の微妙な秘密を見つけだして生活しているものである。特にお姉さんの生き様は、バイト中の雑談はもとより、彼氏の話だの、ゾルゲの話だの芸能界の話だの、語ってくれることの大部分はこういう微妙な綾の上の話なのである。これらの秘密くさい微妙な、そして小さな心のひとつひとつが正確に掘りだされてきた宝石のような美しさで私は聴いていたのだが、さればとて、然らば私もこういうものを書いてやろうか、という性質のものではない。私の頭を逆さにふっても、女性的な煌めきとでも謂おうか、こういうものは出てこない。成る程お姉さん流に語られてみれば、斯くの如き心も私の裡に在ることが否定できぬが、私の生活がそういうものを軌道にしてはいないのである。だが私はいま、文学論を述べることが主眼ではない。このような微妙な心、秘密な匂いをひとつひとつ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいように大切であろうと私は思うのである。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも眉毛でも、男どもに分らぬ「イノチ」が女の人には感じられるのではあるまいか。まして容貌の衰えに就いての悲哀というようなものは、同じものが男の生活にあるにしても、男女の有り方には甚だ大きな距りがあると思われる。何時しか彼女と交わした何かメールだったか手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、兎に角私にも見当ぐらいはつく。
このような女の人に比べると、私の毎日の生活などはまるで中味がカラッポだと言っていいほど一時間一時間が実感に乏しく、且つ、だらしがない。てんでイノチが籠こもっておらぬ。一本の髪の毛は愚かなこと、一本の指一本の腕がなくなっても、その不便に就いての実感や、外見を怖れる見栄に就いての実感などはあるにしても、失われた「ちいさなイノチ」というものに何の感覚も持たぬであろう。だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さか何かを持っているかに思われ、その絢爛たる蓮の花が開く時と凋落との怖るべき距りに関しては、既にそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。女の青春は美しい。その開花は目覚しい。女の一生が悉く秘密となってその中に閉じこめられている。だから、この点だけから言うと、女の人は人間よりも、もっと動物的なものだという風に言えないこともなさそうだ。実際、女の人は、人生のジャングルや、ジャングルの中の迷路や敵や湧き出る泉や、そういうものに男の想像を絶した美しいイメージを与える手腕を持っている。若し理智というものを取り去って、女をその本来の肉体に即した思考だけに限定するならば、女の世界には、唯だ亡国だけしか有り得ない。私はマリア崇拝者ではないけれど、女は貞操を失うとき、その故郷も失ってしまうと信じずには居られないのだ。斯くの如く、その肉体は絶対で、その青春もまた、絶対なのである。
ただし、どうも、女一般だの男一般というような話になると、忽ち私の舌は廻らなくなってトンチンカンになってしまうだろうから、この辺で切り上げておいて、私はやっぱり我流に蓮ノ空と自分一人のことだけ喋ることにしよう。唯だ、さっきの話のちょっとした結論だけ書加えておくと、女の人は自分自身に関する限り、生活の一時間一時間を男に比べて遥に自覚的に生きている。非常にハッキリと自分自身を心棒にした考え方を持っていて、この観点から言う限りは、男に比べて遥かに「生活している」と言わなければなるまいと思う。だいたい先刻の「檜垣」の話にしても、容貌の衰えを悩むあまり幽霊になったなどというプロットは、光源氏を主人公にしても男では話にならない。光源氏を幽霊にすることは不可能でもないけれども、少なくとも男の場合は老齢と結びつけるわけには参らぬ。ここに一人の爺さんがあって、容貌の衰えたのを悲嘆のあまり魂魄がこの世にとどまって成仏が出来なくなってしまった、というのでは読者に与える効果がよほど違ってくる。むしろ喜劇の畑であろう。女は非常に狭いけれども、強烈な生活をしているのである。一生涯めくら滅法に走りつづけて、行きつくゴールというものがなく、唯だ老いるだけ老いて、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終りである。永遠に失われざる青春、老婆になっても現実の奇蹟を追うてさまようなどとは、それこそ毒々しくてイヤだ。甘くなさそうでいて、何より甘く、深刻そうでいて何より浅薄でもあるわけだ。
斯く謂う私も、女の人ほど苦々しいものではないにせよ、都市生活のぼんやりとした不安にじんわりと苛まれた結果、まるで詩歌の世界が謳うような、甘い青春の物語にはついて行けなくなってきていた。私の生活そのものもどこか散文ばかりになってしまった。唯だ事実のまま書くこと、問題は唯だ事実のみで、文章上の詩歌というものなどは、甘過ぎて、美し過ぎて、耐えられない。たとえば子規は単なる言葉のニュアンスなどにとらわれて俳句をひねっているけれど、その日常は号泣又号泣、甘やかしようもなく、現実の奇蹟などを夢見る甘さはなかったであろう。蓋し私は、一切の言葉の詩情に心の動かぬ頑固な不機嫌を知った代わりに、現実に奇蹟を追うという愚かな甘さを忘れることが出来ない。忘れることが出来ないばかりでなく、生存の信条としていると評するべきかも知れぬ。
このように、恰も「淪落の青春」などと人生を揶揄しているみたいに書いておいて、まるで私の恋愛とか青春とかいう意味はヤケとかデカダンという意味のように思われるかも知れないけれども、そういうものを指しているわけでは毛頭ない。そうかと謂って、私自身の生活に何かハッキリした青春の自覚とか讃歌というものが有るわけでもないことは何度か白状に及んだ通りで、私なんかは、一生唯だ暗夜をさまよっているようなものだ。けれども、こういうさまよいの中にも、私には私なりの一条の灯の目当ぐらいはあるもので、茫漠たる中にも、なにか手探りして探すものはあるのである。非常に当然な話だけれども、信念というようなものがなくて生きているのは、あんまり意味のないことである。けれども信念というものは、そう軽々に持ちうるものではなくて、お前の信念は何だ、などと言われると、私などは真っ先に返答が出来なかった。それに、信念などというものがなくとも人は生きていることに不自由はしないし、結構幸福だ、ということになってくると、信念などというものは単に愚か者のオモチャであるかも知れぬ。
実際、信念というものは、死することによって初めて生きることが出来るような、常に死と結ぶ直線の上を貫いていて、これもまた一種の淪落の在り方であり、青春そのものに外ならないと言えるであろう。けれども、盲目的な信念というものは、それが如何ほど激しく生と死を一貫して貫いても、それほど立派だと言えないし、却ってそのヒステリー的な過剰な情熱に濁りを感じ、不快を覚えるものである。平敦盛や天草四郎といった若くして徒花を散らせた英霊たち、祖国のために死んだ無数の若者の流血は凄惨眼を掩わしめるものがあるけれども、人びとを単に死に急がせるかのようなプロットを好む現代人の傾向なんぞには、私は時に大いなる怒りを感じ、その愚かさに歯がみを覚えずには居られない。イノチにだって取引というものがある筈だ。イノチの代償が計算外れの安値では信念に死んでも馬鹿な話で、人びとは十銭の茄子を値切るのにヒステリーは起さないのに、イノチの取引に限って、とりわけそれがうら若き女性であれば尚更、ヒステリーを起してわけもなく破産を急ぐというのは決して立派なことではない。
そして、死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。私のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身に差し迫って感じられる。こんなにも空虚な実のない生活をしていながら、努力をしていると自分自身に言い訳しながらそれでいて生きているのが精一杯で、祈りもしたい、酔いもしたい、忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい、物語を綴りたい。私には余裕がないのである。生きることが、唯一、全部なのだ。そういう私とっては、青春ということは、要するに、生きることのシノニムで、時間制限もなければ、未だ、終りというものもなさそうである。
半端に取り入れた恋愛脳
ぶつかり合う感情論
おとぎの国 見えなくなった後も
愛を知って強くなれるとか
曖昧で 不思議な言葉を人は信じてるから
恋の理想なんて 言われても難しくて
案外悩んじゃって 考えると恥ずかしくて
妄想リプレイ もう結構
何か虚しい ちょっと
着飾らずに居られる場所が欲しい
無論、私自身の言葉だけでは弱いことも重々承知しているので、かの有名なスタンダール『恋愛論』("De l'Amour", 一八二二年)を紹介して理論の補強とさせていただこう。彼は中世以来の遊戯的恋愛への疑義を「結晶作用」の比喩でもって説明し、二十一世紀の自称・文明人好みの恋愛理論を展開する。彼に曰く、恋愛には以下の四種類に分かれるという。
情愛恋愛:学僧アベラールと女弟子エロイーズの悲哀。
趣味恋愛:一七六〇年頃の恋。繊細な絵画のような恋愛。
肉体恋愛:快楽に基づく恋愛。
虚栄恋愛:流行型の女を恋人にする贅沢な恋愛。しばし肉体の快楽を欠く。
そして人間の麗しき恋は、以下のメカニズムでもって段階を踏むという。
感嘆。
接吻したい、されたい、と思う。
希望、烈しい情熱、大きな快楽。
恋の発生。恋するとは、愛する人、愛してくれる人にできる限り近寄り、見たり、触れたり、あらゆる感覚で感じることに快楽をもつことである。
第一の結晶作用。愛されていると自身のもてるとき、相手の美点しか見えぬ、この天から降ってきたような財産を誇張して考えるようになる。愛する対象が新しい美点をもっていることを発見する精神の作用を「結晶作用」と呼ぶ。この現象は、我われに快楽をもつように命じ、血液を脳に昇らせる本性、快楽は愛する対象の美点と共に増加するという感情である。彼/彼女は自分のものだとする考えから生れる、然し単調さに飽き、完全な幸福にも飽きて、注意力が弛むことがある。そして‥‥‥
疑惑が生れる。恋の熱が冷めてくると、唯だの浮気女だったのではないかと疑い始める。希望の根拠に厳しくなり、恐ろしい不幸に陥るのではないかという疑念に囚われる。深い注意力が生れる。
第二の結晶作用。疑惑に囚われた後、恋する男/女は「やっぱり、あの人はわたしを愛している」と呟く。「だが、心を引き裂くような、然し快くもない感情が揺れ動くなかで、快楽を与えてくれるのはあの人を置いて他に居ない」と感じる。第一より重要な第二の結晶作用。
長い時間と莫大な資金を唯だ一人に投資した結果、自分が誤っていたと知り、結晶をひとつひとつ破壊せねばならないと気付いた時ほど痛ましい瞬間はない。そして恋人は、絶えず次の三つの考えの間を右往左往する。
彼/彼女はあらゆる美点を備えている。
彼/彼女はわたしを愛している。
彼/彼女からもっとも大きな愛の証拠を取り付けるにはどうするか?
この『恋愛論』に限らず私はスタンダールが好きであるが、特に私に興味のあるのは、彼の文体の方である。凡そ人間の性格を眼中に入れなかった作家といえば、スタンダールほどその甚しいものはない。人間を、性格的に把握しようとすることが彼の文章に於いては皆無である。然し彼には人を性格的に把握する能力が欠けていたわけではない。欠けているどころか人並以上に眼光が鋭く性格把握の能力が勝れているのは『バイロン論』を読めば分る。バイロン論と言ったって、実はバイロンとの交遊録で、バイロンの性格や人物だけを書いている。結局彼は文学の野人であった。彼には伝統も不要であった。彼の文学の興味は非常に筋書的な線的な興味で、性格描写なぞにはてんで情熱が湧かなかったのであろう。したがって、彼の小説の人物は固定された性格を全く与えられてはいないわけだが、事件から事件へ転々と動かされて行くうちに、所謂性格なぞというケチな概念とかけ離れ、実に歴々と特殊な相貌を明らかにする。彼の作中の人物は性格が何物をも限定せず、事件が人間を限定し同時に発展せしめるという無限の可能と動きの中に置かれている。つまり彼の文章はそれに相応しく特殊である。彼の小説は一行づつ動いて行く。それも非常に線的な動き方をするのである。百行のうちに二十人くらいの人物が現れ、なんの肉体もなく線のように入り乱れて動き回っていると思うと、突然それらの人物が肉体をもち表情をもち、恰も実の人物を目のあたりに見る明瞭さで紙上に浮き出ていることに気付かなければならないのである。
文学にはいつも奇蹟が必要だ。然しスタンダールのこの奇蹟は奇蹟中の奇蹟であって、スタンダールの天才にだけ許されたものであった。私のような小説家気取りの素人が直接模倣することは無意味である。私は従来の文学に色々の点で不満を持つが、その最も大なるものは人間や人間関係の把握の仕方の惨めなまで行き詰まったマンネリズムに就いてである。人間の性格を把握する認識の角度なども阿呆らしく、そういう約束の世界に住み馴れてみると、結構そういう約束ごとの把握の仕方が通用し、実在界を規定するから益々もって阿呆らしい。固より、スタンダールの描いた人間は新鮮ではない。彼は性格を主目的に描かなかったとはいえ、結局最後に性格が滲みでてくるわけであるのだが、それらの性格も新鮮でない。別に新鮮な角度から認識されてはいないのである。けれども私に興味のあるのは、スターンの『トリストラム・シャンディ』なども同類であろう、こういう文体も可能であるという事実であった。全然性格を無視した人間の把握の仕方、常に事件の線的な動きだけで物語る文体、そういう類のものが数百年前にもあったのである。それが直接私の文学の啓示にはならないまでも、そういう荒々しい革命的な文体すら可能であるということを知ると、私は自分の文学の奇蹟を強く信じ、二十一世紀の文壇に期待して良いような元気の溢れた気持ちになる。私も人間の性格なぞはてんで書きたいとは微塵も思はない。兎角、スタンダールの描いた人間は平凡である。
然し作家も、所詮は青春を経験した一人の人間であるというのは興味深い。スタンダールは青年の頃メチルドという婦人に会い、一度別れたきり多分再会しなかったと記憶しているが、これを我が永遠の恋人だと言っている。折にふれてメチルドを想い出すことによって常に幸せであったとも言い、この世では許されなくても、神様の前では許されるだろうなどと大袈裟なことをヌケヌケと言っている。本気かどうか分らないが、平然としてこう甘いことを言い、堂々としているところが面白い。スタンダールと仲が良いような悪いようなメリメは、これはまた変な作家で、生涯殆どたった一人の女だけを書きつづけた。彼の紙の上以外には決して実在しない女である。コロンバでありカルメンであり、そうして、この女は彼の作品の中で次第に生育して、ヴィーナス像になって、言いよる男を殺したりしている。だが、メリメやスタンダールばかりではない。人は誰しも自分一人の然し実在しない恋人を持っているのだ。現代人は屡々これを「推し」と呼ぶ。この人間の精神の悲しむべき非現実性と、現実の家庭生活や恋愛生活との開きを、なんとかして合理化しようとする人があるけれども、これは理論ではどうにもならないことである。どちらか一方をとるより外には仕方がなかろう。なお、果たして私が『天華恋墜』にてスタンダール流の結晶作用の美麗さを如何に表現するかこそが、目下の課題に感じていることも、また向き合わなければならぬ事実であるわけだが。
されどこうも理論っぽいと嘘臭いので、少し実体験を話そうか。一昔前の話だけれども、その頃私は同じ学校の少女(れいのお姉さんとは別人である)が好きになって、会わない日にはせめて連絡ぐらい貰わないと、夜が眠れなかった。けれども、その女の人には私のほかに恋人があって私よりもそっちの方が好きなのだと私は信じていたので、終ぞ私は打ち明けることが出来なかった。そのうちに女の人とも会わなくなって、やがて私は淪落の新らたな世間に瞬きしていて、私はもう全然生れ変っていた。私はとてもスタンダールのようにヌケヌケしたことが言えないので、正直なところ、この女の人はいまではもう私の心に住んでいない。ところが、会わなくなってから数年後ぐらいに(その間には私は別の女の人と生活していたこともあった)、その女の人と会う機会があって、どうしてあの頃好きだと一言くれなかったのと詰問した。女の人も内心は取乱していたのであろうが、外見は至極冷静で落着いて見えたのが怖かった。私はすっかり取乱してしまったのである。忘れていた激情がどこからか溢れてきて、私はこの女の人と付き合いたいという気持ちになった。それから一ヶ月ぐらいというもの、二人は三日目ぐらいずつに会っていたのだが、哀しい哉、淪落の世界に落ちた私はもう昔の私ではなく、突然取乱して激情に溺れたりしても、ほんとはこの人がそんな激しい対象として私の心に君臨することはもう出来なくなっていたのである。彼女がこれに気付いて先に諦らめてしまったのは非常に賢明であったと私は思う。女の人が、もう二度と会わない、会うと苦しいばかりだから、ということを書いてよこしたとき、私も全く同感した。そうして、まったく同感だから再び会わないことにしましょう、という返事をだして、実際これで心の裡のくだらない一つがハッキリ一段落したという幸福をすら覚えた。いままで偶像だったものをハッキリ殺すことができたという喜びであった。この偶像が亡びても、決して亡びることのない偶像が生れてしまったのだから、もう仕方がなかったんだ。さりとて私にはヌケヌケと、スタンダールの、メチルド式の言い種を愉しむほどの度胸はないし、過去などは皆一片の雲になって、然し、スタンダールの墓碑銘にある「生き、書き、愛せり」ということが、改めてハッキリ今日の私の生活になったのだ。だが、愛せり、とはやや蛇足かも知れぬ。或いはまた、青春と同じく、生きることのシノニムだ。尤も、生きることが愛すことのシノニムだとも言っていい。
そうだ、私がこうして文章を書くのもまた、何か自分以上の奇蹟を行わずにはいられなくなるためで、全くそれ以外には大した動機がないのである。人に笑われるかも知れないけれども、実際その通りなのだから仕方がない。いわば、私の創作活動やそれを補うための学問からフィールドワークに至るまでそれ自身、私の淪落の象徴で、私は自分の現実をそのまま奇蹟に合一せしめるということを、唯一の情熱とする以外に外の生き方を知らなくなってしまったのだ。これは甚だ自信たっぷりのようでいて、実はこれぐらい自信の欠けた生き方もなかろう。常に奇蹟を追い求めるということは、気が付く度に落胆するということの裏と表で、自分の実際の力量をハッキリ知るということぐらい悲しむべきことはないのだから。だが然し、持って生れた力量というものは原罪みたいなもので、今更悔いても及ぶ筈のものではないから、私に許された道というのは、兎に角前進するだけだ。
自分の罪を考える、それが文学の中で本当の意味を持つのは、具体的な行為として倫理的に発展して顕れるところにあるので、手をひっくり返して眺めて鬼気迫るなどとは、ボーンという千万無量の鐘の思いと同じこと、海苔をひっくり返して焼いて、味がどうだというような日本の幽霊の一匹にすぎないのである。このあいだ馬籠に行ったので例に出させていただくが、島崎藤村は誠実な作家だと謂うけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章乃至小説との距離というものを見れば分かる。藤村と小説とは距りがあって、彼の読みにくい文章というものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で、魂の悪戦苦闘というものではない。作家と作品に距離があるということは、その作家が処世的に如何ほど糞マジメで謹厳誠実であっても、根柢的に魂の不誠実を意味している。作家と作品との間に内容的には空白な夾雑物があって、その空白な夾雑物が思考し、作品をあやつり、あまつさえ作家自体、人間すらも操っているのだ。私のような素人にはイマイチこの距離が分らぬばかりでなく、この距離自体が思考する最も軽薄なヤリクリが外形的に深刻真摯であるのを、文学の深さだとか、人間の複雑さだとか、藤村文学の貴族性だとか、或いは悲痛なる弱さだとか、たとえばそのように考えたくなるのである。畢竟藤村は世間的処世に於いては糞マジメな人であったが、文学的には不誠実な人であったということなのだろう。したがって彼の誠実謹厳な生活自体が不健全、不道徳、贋物にせものであったと私は思う。
然し、スタンダールも藤村もほんとうはどうでも良いのだ、この話は唯だこれだけで、なんの結論もないのだ。彼女たちスクールアイドルの青春がそうあるべきだ、とは寸毫も思わぬのだから。なんの結論もない話をどうして書いたかというと、私が大いに気負って青春論(または淪落論)などを思案している一瞬間、まるで私を冷やかすように、ふと、「推し」の顔が浮んできた。「――あっはっは!ほんとうにキミは面白い子だねぃ。」なるほど、あの少女には青春も淪落も馬耳東風で、私は聊か降参してしまって、ガッカリしているうちに、ふと書いておく気持ちになった。書かずにいられない気持ちになったのである。唯だ、それだけ。
立ち返って、「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」という物語は、他愛もない我が一人生に於いて、いったいどのような意味を持ち得るのだろうか?
変わらないものと変わっていくもの、
旅立つものと遺されるもの。
新しい風は次の蕾をほころばせる。
その中で煌めく青春を生きる九人の少女たち。
限りある時間の中で、
精一杯に花咲こうともがく。
これは、そんな彼女たちの
『みんなで叶える物語』――
私が同作品を推し始めた経緯、その二次創作小説である『天華恋墜』を執筆するに至った決意は以前に語った如くであるので改めて呶呶を要さぬが、三十万字近くを綴って来て新たに惹起した感情が一箇、それは、文明の詩は金にある、ということ。職業作家は詩人の本分を全うする為に金を得ねばならぬ。詩を作るより田を作れと謂う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。殊に文明の民は詩人の歌よりも詩人の行を愛する。なによりそれは、所謂「大衆受け」する中身でなければ見向きもされないし、名声を欠くは価値無きに等しい。「ラブライブ!シリーズ」は間違いなく一世を風靡してその偶像少女の生き様すらを響かせたが、私はこの物語を描いたのが何者なのか、その姓名すら、況や本性をも知らぬ。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴なる少女たちの実生活を詩化しつつあるのは、どうやら確かそうだ。一方で、少女百合亜の青春悲劇――或いは蓮太郎少年の人間喜劇――は一文にもならぬ。知名度は皆無である。そして詩人ほど金にならん商買はない。同時に詩人ほど金と時間の要る商買もない。文明の詩人は是非とも他の人の金で詩を作り、他の人の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。資本主義社会で搾取されるだけの平均的労働者に過ぎない私が、我が本領を解さぬ彼らに不快感を催すのは自然の数である。あすこには中以上の恒産があると聞く。
然し何故彼らは「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」を書いたか?新しい生の発見探求のためであるには余りにも距離がひどすぎる。彼らはそれを意識していなかったかも知れぬ。そして彼らは自分では真実「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」の発見探求を賭けているつもりであるかも知れないのだが、如何せん、彼らの態度は彼ら自身をすら欺いており、彼らが最も多く争ったのは文学世界或いは青春物語の崇高さのための欲求ではなく、彼らは大量消費社会に囚われ、名誉と争い、彼ら自らをも世間と同時に欺くためにこの作品を利用したのだと私は思う。私がこれを語っているのではなく、「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」の文章の距離自体がこれを語っているのである。何処までいっても沙翁は沙翁、凡人は凡人だ。果たしてサブカルチャー界隈は、今日までに第二のシェイクスピアを認め得ただろうか?断じて、否。二十一世紀の文字書きは告白することによって苦悩が軽減し得ると信じ、苦悩を軽減し得る自己救済の文章を工夫したに過ぎぬ。作中の登場人物たちの自己を苦しめる場合でも、畢竟それは自分自身を助ける手段でしかなかった。彼らは真に我が生き方の何物なりやを求めていたのではなく、唯だ世間の道徳の型の中で、徒に世間を相手にして、ツジツマの合った空論を弄ろうして大文学らしき外見の物を書いてみせただけである。物語に合わせて如何に素晴らしい音楽が聞こえ、偶像化していく声優の皆様方が御立派な演技を披露いただいたとしても、これは、私が愛してやまない蓮ノ空の文章の距離自体が語っているのである。
とはいえ一方、私が語りたがる「ロマンチックな恋愛文学」――即ちシェイクスピアが『ロミオとジュリエット』で最高の劇的表現を与えたこの形式が今世紀に至るまで脈々と生き続けているところで、現代では一層露骨な大衆文化によって搾取されていることもまた事実であろう。二十一世紀の作家は現世に縛られ、通用の倫理に縛られ、現世的に堕落ができなかった。文学本来の道である人間精神への好奇と自己破壊、通用の倫理に対する反逆は、彼らにとっては堕落であった。私は、然し彼らが、恰も真実欲する女を口説き得ず別の女と関係を結ぶような方便に至ったことを非難しているのではない。人間には各々の個性による如何なる生き方も在り得るので、真実愛する人を口説き得ぬのも仕方がないが、何故彼女らスクールアイドルが、自らの小さな真実の秘密を自覚することも許されず、その悲劇を自ら語り得ずに、空虚な大小説のプロットに甘んじているのか、この状況を咎めているだけのことである。唯だ唯だ春風駘蕩で謹厳誠実な生き方は、文学の世界に於いては欺瞞であるにすぎないのだから。
美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくって大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であって、毫も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するように、正しいことをも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、ということは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、更には悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、人間の倫理の根元はここにあるのだ、と私は信じている。人間が好むものを欲し、男が好きな女を口説くことは自然であり、限りある青春の時間の中で、ひとりの少女がひとりの少年に恋をすることは、至極当然の大道ではないか!いまは、それに対してイエスとノーのハッキリした自覚があれば、それで良い。この自覚が確立せられず、自分の好悪、イエスとノーもハッキリ言えないような少年少女の育て方の不健全さというものは言語道断だ。
所謂オタク、とりわけ「百合」作品愛好者の異常性癖は現実生活での堕落乃至しばし処女の純潔などという妄想から発しているのだけれども、一向に実用的なものではないので、失敗は成功の母と言い、失敗は進歩の階段であるから、処女を失うぐらい必ずしも咎むべきではなかろう。純潔を失うなどと言って、ひどい堕落のように我われに思い込ませるから、罪悪感によって本格的に堕落の路を辿るようになるのであって、これを進歩の段階と見、より良きものを求める為の尊い捨石であるような考え方生き方を与える方が妥当だ。より良きものへの希求が人間に高さと品位を与えるのだ。単なる処女の如き何物でもないではないか?尤も、無理に棄て去る必要はないのだ。要は、魂の純潔が必要なだけである。失敗せざる魂、苦悩せざる魂、そしてより良きものを求めざる魂に真実の魅力は少ない。令和の日本の家庭というものは、魂を昏酔させる不健康な寝床で、純潔と不変という意外千万な大看板を掲げて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思っている。家庭が娼婦の世界によって簡単に破壊せられるのは当然で、娼婦の世界の健康さと、家庭の不健康さに就いて、人間性に根ざした究明が、また、文学の変わらざる問題の一つが、常にこのことに向かって行われる必要があった筈だと、私は思う。娼婦の世界に単純明快な真理がある。男と女の真実の生活があるのである。騙し合い、より美しくより愛らしく見せようとし、実質的に自分の魅力のなかで相手を生活させようとする。
別な女に、別な男に、いつ愛情がうつるかも知れぬという事の中には人間自体の発育があり、その関係は元来健康な筈なのである。然し、成る丈永遠であろうとすることも同じように健康だ。そして男女の価値の上に、肉体から精神へ、また、精神から肉体へ価値の変化や進化が起る。価値の発見も行われる。そして生活自体が発見されているのである。即ち問題は、単に「恋愛」でも「文学」でも「消費社会」でもなしに、人間の自覚なのであって、大半のオタクはその本質に於いて人間が欠けており、生殖生活と巣を営む本能が基礎になっているだけだ。そして、今日の日本の生活感情の主要な多くは、この家庭生活の陰鬱さを正義化するために無数のタブーを造っており、それが一層思惟や思想の根元となって、サビだの幽玄だの人間よりも風景を愛し、庭や草花を愛させる。私が独り旅に逍遥するのは、他者との関わりから逃避するが為でもあろう。
固より人間は思い通りに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物は我が手に入らず、手の中の玉は逃げだし、希望の多くは仇夢で、人間の現実は概ね斯くの如き卑小極まるものである。けれども、兎角、希求の実現に努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常に崩れるけれども、諦めや慟哭は、崩れ行く夢自体の事実の上に在り得るので、思惟として独立に存するものではない。人間は先ず何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考えるとき、はじめて思想に肉体が宿る。生活自体が考えて、常に新たな発見と、それ自体の展開を齎してくれる。この誠実な苦悩と展開が常識的に悪であり堕落であっても、それを意とするには及ばない。
扨てはここまで呶々を要しながら、恋愛とは如何なるものか、私はよく知らない。その如何なるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。誰しも恋というものに突きあたる。或いは突きあたらずに結婚する人もあるかも知れぬ。やがて良人を妻を愛す。或いは生れた子供を愛す。家庭そのものを愛す。金を愛す。着物を愛す。
私はフザけているのではない。二十一世紀では、人を愛し、人を恋しもするが、通例モノを恋すとはいわない。稀にそういう時は、愛すと違った意味、もう少し強烈な、「オタク」という蔑称にも顕れる、狂的な力が籠められているような感じである。「推し」へのこの不可解な動悸は、惚れたというと下品になる、愛すというといくらか上品な気がする。下品な恋、上品な恋、実際いろいろの恋があるのだろうから、惚れた、愛した、こう使いわけて、たった一字の動詞で簡単明瞭に区別がついて、日本語は便利のようだが、然し私はあべこべの不安を感じる。すなわち、たった一語の使いわけによって、いともあざやかに区別をつけてそれで済ましてしまうだけ、感性自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見逃してしまうのではないか。言葉に頼り過ぎ、言葉に任せ過ぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまり我われの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度を疎かにしてしまうのではないか。要するに、日本語の多様性は雰囲気的であり過ぎて、したがって、オタクの心情の訓練をも雰囲気的にしている。我われの多様な言葉はこれを操るに極めて自在豊饒な心情的沃野を感じさせて頼もしい限りのようだが、実は私たちはその御蔭で、わかったようなわからぬような、万事雰囲気で済まして卒業したような気持ちになっているだけの、原始詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマの咲きわう国に、文化の借衣裳をしているようなものだ。
そして人は恋愛というものに、特別雰囲気を空想し過ぎているようだ。然し、恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。唯だ、すきだ、ということの一つなのだろう。すきだ、という心情に無数の差があるかもしれぬ。その差の中に、すき、と、恋との別があるのかもしれないが、差は差であって、雰囲気ではないはずである。恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、冷めるものだ、ということを知っている大人の心は不幸である。私もそうなってしまった。若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。年齢には年齢の花や果実があるのだから、ほんとうは恋は幻に過ぎないという事実については、若い方々は、唯だ、承った、聞置く、という程度でよろしいのだと私は思う。
ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私は嫌いだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういう当然過ぎるとは、無意味であるに過ぎないものだ。教訓には二種類があって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するに決まっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だと理解していても、それをするな、と謂い得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえ、ということが成り立たないのと同じだ。
ここまで来た結論として私が主張したいのは、青春は、恋愛は人間永遠の問題だ、ということ。人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと、私は考える。だから人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語り得るものでもなく、また我われが、純粋なる恋を欠くあの物語を眼前にして、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのだ。さりとて、恋愛は由来、あんまり円満多幸なものではない。愛する人は愛してくれず、欲しいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口を広げて待っている。筋書き通りの勝利などあり得ない。夢見る少女などは、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。そう考えると、俄然青年の魂は、何物によっても満たし得ない類のものである。特に知識は人を悪魔に繋ぐ糸であり、人生に永遠なるもの、裏切らざる幸福などはあり得ないことを知らせる。限られた一生に、永遠などとは固より嘘に決まっていて、永遠の恋などと詩人めかしていうのも、単にある主観的イメージを弄ぶ言葉の綾だが、こういう詩的陶酔は決して優美高尚なものでもないのである。
だとすれば、残すところ幾許かとなった我が人生においては、詩的感動を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。固より現実は常に人を裏切るものである、これは我が空蝉の肉体が味わってきた経験則からも語ることができる。然し、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度は兎も角厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。対象自体が詩であるときに、はじめて詩にイノチがありうる。プラトニック・ラヴと称して、精神的恋愛を高尚だというのも妙だが、肉体は軽蔑しない方がいい。肉体と精神というものは、常に二つが互に他を裏切ることが宿命で、我われの生活は考えること、即ち精神が主であるのだから、常に肉体を裏切り、肉体を軽蔑することに馴れていても、精神はまた、肉体に常に裏切られつつあることを忘るべきではない。どちらも、いい加減なものである。
そして人は、恋愛によっても、満たされることはなさそうだ。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが判るる外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛の引け目になるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、我われの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。人生において、最も人を慰めるものはいったい何か?苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、些か、満たされる時はあるだろう。それにすら満たされぬ魂が君にあるというのか!ああ、孤独。それを言いたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の華である。道化の華だ。如何に退屈であろうとも、この外に華はない。唯だ、我われは、めいめいが、めいめいの人生を、精一杯に生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、労わらねばならないだけだ。
畢竟私が「蓮ノ空」とその創作活動から得た学びは唯だ一つ、みずからの真実とは何か、という基本的なことだけであった。それについても、また、私は確信をもって断言しうる言葉をもたない。唯だ、常識、所謂醇風良俗なるものは真理でもなく正義でもないということで、醇風良俗によって悪徳とせられること必ずしも悪徳ではなく、醇風良俗によって罰せられるよりも、自我みずからによって罰せられることを怖るべきだ、ということだけは謂い得るだろう。或いは私は、青春の、異性愛のデカダンス自体を文学乃至サブカルチャーの目的であるとも考えてはいないのだ。私は唯だ人間、そして人間性というものの必然の生き方をもとめ、自我自身を偽らず欺くことなく生きたい、というだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋道徳で、そこから誠実なる堕落を怖れないことが必要であり、人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だというだけである。人間は諸々の欲望と共に正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必然的な展開に就いては全く予測することができない。
扨は斯く語る貴様は何者なのか、と詰められれば私も閉口して、イエ、私は小説家気取りの夢想家であります、それに小説家は山師の仕事ではありません、などと言い逃れをするかも知れぬ。尤も私は全く小説は山師の仕事だと考えているが。金が出るか、ニッケルが出るか、ふつうの山だか魔の棲む山だか、掘り当ててみるまでは見当がつかなくて、自分の力量以上に多くを賭けていることが確かなのだから。もっと一般の意味に於いても、やっぱり文字書きはやっぱり山師だと私は考えている。山師でなければ賭博師だ。少なくとも、私に関する限りは。こういう私にとっては、所詮一生が毒々しい青春であるのはやむを得ぬ。私はそれにヒケ目を感じること無きにしもあらずという自信のない有様を白状せずにもいられないものの、時には誇りを持つこともあるのだ。そうして「淪落に殉ず」というような一行をエピタフに刻んで、サヨナラだという魂胆をもっている。要するに、生きることが全部だというより外に仕方がない。
日本文学は風景の美にあこがれる。然し、人間にとって、人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとっては人間が全部のものだ。そして、人間の美は肉体の美で、衣装だの装飾品だので飾られる美ではない。人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神とが織りだす独得の絢は、サブカルチャー界隈で交わされる一般的な解説によってのみ理解し得るものではなく、常に各人各様の発見が行われる永遠に独自なる世界であろう。これを個性と、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活を求めることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか!カントは『実践理性批判』に於いて神への愛こそが真なる愛であると説いていたが、正しく私にとっては、この静寂なる使命こそが神である。だからこそ、私は唯だ、私自身として、生きたいだけだ。そして願わくば、我が美意識をもってして、我が未熟なる文学論を開花させ、我が愛する偶像少女の運命を、異性愛の崇高さに於いて成就させる。その使命の為には、第一〇二期生の正統なる運命が「優勝」であるのは、些か機械仕掛けの匂いがして、ふつう過ぎるのだ。カタルシスは文学の基本中の基本である。蹉跌があればこそ、我が稚拙なる作品に於いて逆転の運命が、より鮮明な展開となり得るのだから。神の定めたもうし厳格な運命に依って、私の恋する少女たちは、人並みの恋愛でさえも経験することが出来ないことが確定している。夢見る女の人、あの子らに幸せになって欲しいと唯だ願うこと、それが一体どれほど欲深いと、貴方は言うのか!私はこの人間理性を誇らしく思うし、ここに表明することで我が大道を再び強く確信するに至った。彼女たちの青春を煌めかせるのは、私だ。
私は平凡な風景の中でずっと安息したいとは思わないし、また、安息し得ない人間である。私は唯だ人間を愛す。私を愛す。彼女たちスクールアイドルを、私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛するのみ。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は墜ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。主よ、我が青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
以上、何故に彼女らが敗北するべきかを語ってみたが、読者諸君らに於いてこの理論に納得いただける勇士は誰一人も居らぬであろう。そもそも衆目に晒すべき文章でもでもないし、「感想文」投稿に際しての注意事項にある「適さない記述」を拡大解釈されて公式より除外処置を喰らうのが終いである。それも、まあ、現時点では私の不徳の致すところとして甘んじて受け入れる気概であるし、そもそも此処まで読んでくれるとも思わないので、あとは思っていることを少しだけ呟かせていただくならば、何より重ねて、私は「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」という作品の大ファンであるという事実を強調させていただきたい。この凡夫は文学の世界を救おうとか、この作品の二次創作で世に名を馳せたいとか、そんな大鵬は飼ってはおらぬ。私は唯だ、大好きな彼女たちに、幸せになって欲しいだけなのだ。実のならない無花果の木が、切り倒されてしまう前に。
最後になるが、我が『天華恋墜』の形式は、やや悲劇にも似ているが、作者は、決して悲劇のつもりで書いたのではないという事を、お断りして置きたい。作者は固より素人である。文学技巧も戯曲作法も殆ど知るところが無い。これは、謂わばレーゼドラマふうの、未熟なるパスティーシュ小説だと思っていただきたい。
如何に永い間、自分は青春や恋愛に就いてのこの思考を持てあまし、荷物の重圧に苦しんでいたことだろう。考えれば考える程、好きになればなるほど、書けば書くほど、後から後からと厄介な問題が起ってきた。折角時間をかけて一つの岩を切りぬいても、すぐまた次に、別の新しい岩が出て来て、思考の前進を障害した。すくなくとも近い過去に於いて、自分は三十万字近くの原稿を書き、そしてそれ以上を中途に棄ててしまった。言いようのない憂鬱が、屡々絶望のどん底から感じられたことも懐かしい。而も狂犬のように執念深く、自分はこの問題に囓じりついていた。あらゆる瘠我慢の非力をふるって、最後にまで考えぬこうと決心したのだ。そして結局、この書の内容の一部分を、東京の三カ月間で書き終った。十月、十一月、十二月。三カ月間かかって、やっと五章分を書き上げたわけである。自分でも読み返してみると、薄っぺらくて、くどくどしくて、淋しい気もする。彼女たちの卒業迄に私はどこまで書き上げられるのだろうか。けれども、これ以上の作品も、いまのところは書けそうもない。作者の力量が、これだけしか無いのだ。じたばた自己弁解をしてみたところで、はじまらぬ。
花霞たなびく春の八重桜
みれどもあかぬきみにもあるかな
親愛なる我が姉、先代のスクールアイドルへ。
令和六年、師走。