見出し画像

鳥籠

一、

 西武新宿線の各駅停車を降り南口へ出ると、商店街が広がっている。昼時をとうに過ぎた街は、休日であるにも拘らず人通りはまばらであった。緑色の看板を掲げる定食屋の老婆が大きなあくびをしている。一瞬目があって、すぐに逸らす。近所の高校からは、合唱部であろうか、見事な「旅立ちの日に」が聞こえた。私は3カ月前に合格通知の届いた大学から課された事前課題をこなすため、初めてこの地に降り立った。スマートフォン上で動く青い矢印を見ながら目的地へと向かう。商店街を抜け住宅地に差し掛かると、いよいよすれ違う人はいなくなった。気づけば合唱も聞こえなくなっている。厚手のコートから出た指先がジンジンと痛む。
 もう15分は歩いただろうかという時、所々タイルの欠けが目立つ茶色いマンションの前でバイブレーションが到着を知らせた。マンションの1階には大きな窓ガラスが嵌め込まれていて、そこに文字を模るように折り紙が貼り付けられている。

 「放課後等デイサービス わらべの会」

 応募フォームに書かれていた文字列と同じことを確認する。私は大きく深呼吸を一つすると、スライド式の重いドアをゆっくりと開けた。

二、


 ドアを開けると、シワに濃い影を落とした50を過ぎたであろう女性と目が合う。年齢に相応しくない水色のエプロンが印象的だ。
 すぐにこちらの用件を察した様子の彼女は、誰かというより寧ろ部屋の壁に向かって大きな声で「ボランティアさん来ましたー」と言った。水野と名乗るその女性は、終始穏やかな笑みを浮かべながら私を椅子に座らせて、施設の説明をしてくれた。
 私が緊張しないようにとの配慮なのか、生来の話し好きなのか、彼女には説明の合間に、ふと思いついたように、自分や利用者に関する雑談を挟む癖があることに気づいた。私は、話があらゆる方向に飛躍する水野の話に、いちいち「へーっ」「そうなんですね!」と、まるで火男のように大袈裟な顔を作って返事をした。
 説明によると「わらべの会」は40年前に練馬区の許可を得て、障害児の母親たちによって立ち上げられた障害児支援施設で、利用者は小学1年生から高校3年生、その約8割が知的障害児だという。聞き逃すべきではない。そうは思っていても、繰り返し挟み込まれる雑談に顔を整えているうち、幾つかの言葉は、耳を撫でただけですぐに空調の風に消えてしまった。
 一通りの説明を終えると、水野は子ども達の遊び場であるという2階へ私を案内してくれた。
 「いつもは7人くらいいて賑やかなんですけどね、今日はみんな遠足に行っていて、今いるのは2年生の久史くんって子だけなんです。」
 口角を緩やかに上げたまま水野が話す。しかし、久史という子どもについて水野はそれ以上の情報を与えてくれはしなかった。話す必要がないと判断したのか、単に伝え忘れたのかは私にはわからない。

三、


 水野に先導され、白いスライド式のドアの中へと足を踏み入れる。12畳ほどの空間は物こそ多いが、殆どが壁際に整理されていて、広々とした印象を与えた。その部屋の真ん中で、灰色のセーターを身に纏った体の小さな少年がひとり、ポツリと座って、果物や電車や動物の絵と、それらの名称がひらがなで描かれたカードを一心にかき混ぜている。そんな彼の様子は、やっと3つぐらいの子が無邪気に遊ぶのと少しも変わらなかった。先ほど水野が私に話した少年の情報は聞き間違いではないのか。
 水野は私を久史のもとへ誘導すると、「私は向こうで少し作業をしますから。」と言って隅の机へと移動していった。そうして、真ん中には私と久史だけが残される形となった。

 「久史くん、こんにちは。」
 相変わらずカードの感触に心を奪われている少年の横で正座になり、蜘蛛の糸のような細く艶のある黒髪に声をかける。優しさを意識したソプラノ寄りの声は、自分でも驚く程わざとらしく、一音一音が粒となってボトボトとこぼれ落ちた。僅かな期待も虚しく、その粒が少年に拾われることはなかった。
 「久史くんは、それで遊ぶのが好きなんだね。」
 今度は赤子に話しかけるように、ゆっくりと、言葉を運ぶ。やはりなんの反応もない。私の眼前では、ただひたすらにカードが捲られていく。パラパラ。パラパラ。「ふくろう」、「けいきゅうせん」、「みかん」……。

 不意に、全身に緊張が走る。先ほどまで私を認識していないかのようだった久史が、こちらに顔を向けているではないか。ほんの一瞬、世界の音が消える。
 一切のシワを排除した陶器のような白い肌、キュッと結ばれた桃色の薄い唇、小さくも真っ直ぐに通った鼻、上へと伸びる豊かなまつ毛の奥に据えられた瞳は全てを吸い込んでしまいそうなほど黒い。あどけない子どもにも、17くらいの美男子にも見える顔だった。
 私は顔のシワをすばやく操作して久史に微笑んだが、すぐに状況の尋常でないことを悟った。彼は私と目を合わせていながら、私を見ていない。
 その証拠には、久史の大きな黒目は私の眼球付近を捉えたままちっとも揺らがない。手を握れる距離にいるはずの少年が、まるで異国のTV中継に映る子どもだった。いつの間にか少年の視線は再びカードに戻されている。
 なるほど。彼と私は別の空間にいるのだ。この子の世界には今、ザラザラとした四角い紙きれの束を除いて何もない。パラパラ。パラパラ。彼は手で感触を確かめながら、ひとりの世界に寄りかかっている。パラパラパラ。

 「そういえば、なぜこの施設にいらしてくださったんですか?」
 声に反応して顔を上げると、柔和な笑みをうかべる水野と目が合う。こけた頬の影を誤魔化すように、目尻にシワを寄せながらこちらを覗いているが、視界の端では常に久史を捉えていることを、私はすぐに見てとった。
 先ほどの雑談の中で、彼女の息子も知的障害を持っていることを聞いた。この施設で働いているのも、25年前に息子がここに通っていたことがきっかけだったそうだ。息子の療育手帳は、1度と言ったか。
 私は、水野の質問に答える形で、昔から子供が好きだったことや、今年の4月から福祉系の大学に通う予定であることなどを簡潔に話した。入学前課題の件は、何となく言わないことにした。
 シワを崩さず、穏やかな表情を保って頷く水野の視線にばつの悪さを感じた私は、水野に向けた微笑みをそのままに、再び久史の方へ視線を移した。

 久史はまだ同じことを繰り返していた。パラパラ。パラパラ。「そうぶせん」、「さくらんぼ」、「すずめ」……。彼の小さな唇はキュッと結ばれたままである。パラパラパラ。シワを排除した顔には影すら落ちる隙がない。そのことが、私には一層可愛らしく、一層憐れに思われた。この少年はいったい何を感じているのだろう。感じられるのだろう。「久史くん、楽しいね。」 パラパラ。 「面白いね。」 パラパラ。パラパラパラ……。

 その時である。どこからか美しい歌声が聞こえてきた。まるで小鳥のさえずりのように透き通った心地の良い音。不明瞭な発音で歌詞は聞き取ることができないが、メロディは確かに聞いたことがある。私を童心に帰らせてくれる懐かしい歌。これは何であったか……。そうだ、「七つの子」。
 歌声の持ち主が久史だと気がついた時、私はシワの操作も忘れて、ただ彼を見つめることしかできなかった。控えめに開けられた少年の口は、天使がラッパを吹く様を彷彿とさせる。ひたすらに美しいと思った。その口から曖昧ながら確かに言葉が紡がれていく。
「かーうー あえんーんー んーんー あーいー♪」
 少年は幾度も同じフレーズを繰り返すばかりなのだが、不思議と不快を感じない。小さく温かな声が私の体を撫でる。床に散らばる「りんご」、「かなりあ」。青白い蛍光灯の下で照らされている絹のような肌。やはり少年は天使なのだ。練馬区に佇むマンションの一室でひとり鳥のさえずるように歌う少年は、私にはどうしても自然の子であるように思われた。
 繰り返し「七つの子」を歌い続ける久史の目線が、ふと私の顔で止まる。心なしか、彼の目は以前より光を帯びている。私は玉のような瞳に笑いかけるように、「かーわいい なーなーつの♪」 と彼に続いて歌った。久史の目は変わらず私の顔を捉えている。陶器の肌は何も語らない。
 「こーあーんーんーよー♪」 
 ああ。子があるからよ、だ。いま久史は確かにそう歌ったのだ。思わず頬が緩む。もうシワを操作する必要はなかった。彼の世界は閉ざされていなかった。

四、


 久史を母のもとへ送り届けたあと、ぬるい風の音が響く部屋で、スプレータイプのアルコールをティッシュに染み込ませて床と玩具を拭う。
水野や他の職員に恭しく挨拶をして施設を後にする頃には、既に星たちが目立ち始めていた。絡まったイヤホンを引っ張って、耳に押し込みかけたが、やめる。駅にはまだ遠い。何処かで烏が鳴いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?