どっちが優しい?

 人の優しさを惜しみなく注がれてきた人間と、人の邪悪さに虐げられてきた人間、どちらがより他者に優しい人物となり得るだろうか。

人の優しさを惜しみなく注がれてきた人間

 彼らは、つまり「優しさ」が当たり前の世界に身を置いてきた人物だ。そうなれば、彼ら自身も他者に対して、意識せずとも当たり前に優しさを与えられる人物となり得る、というのは当然の推察だろう。
 ただ、彼らは「優しくされる」ことが当たり前なのであって、それが「優しくする」ことが当たり前との考えへ結びつくとは限らない。上記が結びつかない時、「当たり前」は厄介だ。こういった場合、人の優しさを惜しみなく注がれてきた人間は、他者には当たり前に優しさを求めながら自身は対価を払わない、傲慢な人物ともなり得る。

人の邪悪さに虐げられてきた人間

 では他者に苦しめられてきた人物はどうだろう。彼らは普通人の何倍も痛みを知っている。そのため、苦しめられる側に感情移入しやすく、他者に同じ思いをさせぬようにと優しさを与えられる人物になるかもしれない。
 一方で、彼らは人一倍邪悪な手段を知っている人物とも言える。例えば、幼少期に意見を暴力でねじ伏せられてきた経験がある人がいるとする。そうすると、彼の脳は意見の対立を解決する手段として「暴力」が有効であると学習する。善悪の判断は別にあるとしても、少なくとも選択肢としては刻み込まれる。
 以上を考慮に入れると、人の邪悪さに虐げられてきた人間は邪悪な手段を受けたが故、自身もその手段を想起して、行動できる残酷な人物ともなり得る。

まとめ

 前述の通り、どちらの環境も両義性があり、一概にどちらが優しくなり得るかは断定できないようである。結局のところ、人間こうすれば絶対に優しくなる、なんて正解はどこにもないのだ。それでも人を形作る要因の一つとして環境が挙げられるのならば思考し続けることは無意味でない。

 人の優しさを惜しみなく注がれてきた人間と、人の邪悪さに虐げられてきた人間、どちらがより他者に優しい人物となり得るだろうか。おわり。

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