【ネタバレあり】映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』の結末に納得のいかなかった私は、しかしその物語上の巧みな仕掛けに気づいて戦慄、手のひらを返して傑作であることを確信するにいたる
久しぶりに映画館で映画を観た。『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』である。
私ははじめ、この作品の結末に納得がいかず憮然としていたのだが、のちにその仕掛けに気づくとともに戦慄し、今では傑作であることを確信している。
なぜこのような心持ちにいたったか、その軌跡を、ここに簡潔に記そう。
この作品には、とにかく魅力的な人物が多く登場する。この作品でアカデミー主演女優賞にノミネートされたシアーシャ・ローナン演じる主人公のジョーをはじめ、個性豊かな姉妹たち、さらには陽気な浮き世離れ系男子ローリー(ティモシー・シャロメ)。それぞれのキャラが立っているため、私は、彼女たちの振るまいや感情の起伏を追いかていけるだけで、とても楽しく鑑賞することができた。
また、久しぶりに映画館で映画を観ているというこちらの事情もあるためか、一つひとつのエピソードが、昔からの親友と思い出話を共有しているようで、多いに心を動かされた。私は、彼女たちとともに笑い、泣き、喜び、そして嘆いていたのである。
しかし、そのようにして素直に物語に身をゆだね、その快楽を大いに享受していた私は、あるシーンで、物語の結末について不安を抱くことになる。それは、ジョーが自身の人生をふり返り、思いのたけを母に吐露する終盤のシーンだ。
女の幸せが結婚だけなんておかしい
そんなの絶対間違ってる!
でも…
どうしようもなく孤独なの
このセリフはなんとも危険だ。というのも、主人公がこれを発することによって、物語から2つのエンディングが奪われるからである。
どういうことか。
奪われたエンディングの一つは、「結婚して幸せになりました」というお決まりのものだ。「女の幸せが結婚だけなんておかしい」と主張する主人公が、結婚によって結局幸せになりました、などという物語は、決して成立しえないだろう。実際、作中、ジョーは繰り返し恋愛や結婚に対する疑念を口にしている。そうしたジョーに感情移入していた観客ほど、結婚によるハッピーエンドは受け入れがたいものになるのである。
しかし、この場面で、ジョーは同時に、結婚しなかったことによって「どうしようもなく孤独」であることを認めている。そうであるからには、この物語は、「結婚しないで自己実現→幸せ」という逆向きのエンディングを安易に選ぶことも、退けなければならないことになる。ジョーの孤独は、作家になったり、本が売れたりするというような、自己実現によって埋め合わせ可能なものではない。だからこそジョーは心から嘆くのであり、そのどうしようもなさが我々の心を打つのである。
要するに、先に引用したジョーのセリフは、映画の着地点を根こそぎ奪いかねない破壊的心情吐露なのである。そしてまた、だからこそ、この場面を観た私は、「この映画、一体どんな結末なら許されるんだ…」と頭を抱えてしまったのである。
では、『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』は、この問題をどう乗り越えたか。
結末だけを観れば、ジョーは去りゆく男性を追いかけて愛の告白。そして結婚。さらには新しい本も出版することができて、めでたしめでたし…。というわけで、つまりは2つの禁じられた結末の「いいトコ取り」である。というか、鑑賞中、私はこの結末を「結局いいトコどりじゃねーか!」などと思い、裏切られた気持ちでがっかりしてしまった。
これでは、全てが上手くいきすぎてご都合主義のような気がしてしまうし、とりわけ「女の幸せが結婚だけなんておかしい」というセリフの現代的なメッセージの力が薄れてしまう。だから私は、なんだかなぁ…、ともやもやした気持ちでエンドロールを眺めていたのである。
しかし。
場内が明るくなり、劇場をあとにする人々を見やりながら、私はある場面を思い出していた。それは、自伝的小説『Little Women』を描き上げたジョーが、編集者と物語の結末についてやりとりをする場面である。
この場面は、去りゆく男性をジョーが追いかけ、愛の告白をしようという(いわゆる)ドラマチックなシーンの途中に、唐突に差し挟まれる。
『Little Women』の結末について質問する編集者に対して、ジョーははじめ「この物語の主人公は結婚しない」「してはならない」と説明する。しかし、編集者は「女性の幸せは結婚にしかない」「売れる作品はハッピーエンドでなければならない」などと頑なに主張し、ジョーに結末の変更を迫る(セリフの記憶が曖昧ですが、そんな趣旨のやりとりだったと思います…)。そこでジョーは、この結末について「経済的」な理由で変更することを認め、かわりに原稿料に関する交渉をはじめる。そして、場面は件の告白シーンへと切り替わるのである。
「この物語の結末をどうするか」などというやり取りを登場人物がしはじめれば、観客としても、今観ているこの映画の結末はどうなるのだろう…、というメタレベルの意識を持たざるをえない。ジョーの描いた物語が自伝的なもので、本のタイトルが映画と同じ『Little Women(若草物語)』であれば、尚更のことである。
本来最もドラマチックに描かれるべき告白シーンの直前に、あえてこのメタレベルのやりとりを差し挟んだ意図は何か…。これについて考えると、一つの答えに行き着く。そう、制作者は、一つの結末を示しながらも、同時にそれは「経済的」な理由で、「あえて」選んだだけだよ、と暗に語っているのである。
そもそも、超有名な古典的名著を原作にもつ物語であるから、あらすじの重要なポイントを制作者が変えることは容易ではない。言い換えれば、物語のはじめから、ジョーは結婚するしかなかったのである。しかし、だからこそ制作者は、「主人公の結婚」という一つの幸せな結末を描きながら、一つのメッセージを忍び込ませたのである。この結末は古い時代の価値観に基づくものであり、「あえて」描いたものにすぎないよ、というメッセージを。
こうした事態に思いをめぐらせるにいたって、私は、制作者が巧みに仕掛けたこのメッセージに戦慄を覚えた。
この物語は、一つの物語ではある。
しかし、一つの物語でしかない。
今、あなたが、この物語を描き上げるとすれば、どんな結末を描きたいだろうか。
そんな問いかけをされているようで、私は「わたしの若草物語」をどのように描き出せば良いか、未だに答えを出せずにいる。
きっと私は、この映画の結末について、この先もずっと考えるだろう。
私の人生そのものが、この映画に対する思考の過程であり、一つの答えであるのだろう。
観る者を虜にする作品を傑作と呼ぶのであれば、そんなわけで、この映画は、私にとっての大傑作なのである。