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『月曜日の友達』に耳をすませば

阿部共実『月曜日の友達』は、とにかく心を揺さぶる物語である。

公式の作品紹介を引用するに、『月曜日の友達』は「大人と子供のはざまのひとときの輝きを描く、まばゆく、胸がしめつけられるガールミーツボーイ物語」なのだという。

この紹介文を読み、私は、これって『耳をすませば』と一緒じゃん、と思った。さらに、そう思ってから読み返すと、中学生の男女を描いた物語であるという舞台設定だけでなく、主人公の少女が本読みで文章を書く仕事につこうとすることや、自転車で2人乗りをする描写がどちらもあまりに美しいことなど、2つの作品に多くの共通点があることが分かる。

事実、作者の阿部共実自身が、『このマンガがすごいWEB』のインタビューにおいて「中学生くらいのときに『耳をすませば』という作品がすごく好きというか、目を離すことができなくて」と語っており、『月曜日の友達』の大もとには『耳をすませば』があると認めている。

要するに、『月曜日の友達』は、『耳をすませば』にとっても似ているのである。

ただ、私は、以上のことから「『月曜日』は『耳を』のパクリ」などと言って作品を貶めたいわけではない。そもそも、2つの作品に触れた方なら分かると思うが、『耳をすませば』が「甘くさわやか」な後味を残すのに対して、『月曜日の友達』は「苦く切ない」思いを抱かせる。もちろん、『耳を』を鑑賞した人間がもれなく鬱になるという話は有名であるが、それは雫と聖司の関係が暴力的なまでにメルヘンスイートだからであって、『月曜日』の読後に抱くビターな感傷はそれとはまったく異質なものだ。

似ているはずの両作品が、どうしてここまで異なる感情を抱かせるのか。

ここで焦点を当てたいのは、『月曜日』の主人公、水谷茜の悩みである。
中学生になった彼女は、大人になっていく同級生や変化していく環境に対して、強い違和感を覚えている。自分はなぜ子どものままなのだろう。子どものままの自分は変なのではないか…と。
そんなときに出会ったのが、「超能力が使える」と豪語し、夜の校庭でその実験をつづける月野だ。端的に言って変なやつなのだが、自分と同じ変なやつだからこそ、水谷は誰よりも彼に気を許すことができるし、2人で過ごす月曜日の校庭は、どんな場所より自分らしく、子どものままでいられる。
そんな時間がいとおしく、これが永遠につづくことを願うからこそ、水谷は次のように願うのである。

月曜日②

『月曜日の友達』1巻、p.134

この純粋すぎる願望の発露は、しかしながら、相手を縛る呪いの言葉でもある。

ずっと変わらずいて欲しい、ということは、変わりゆく世界から取り残されていてほしい、ということだ。世界は変わっても、月野だけは変わらないでいてくれ。世界から取り残されていてくれ。私だけのために、大人にならないでいてくれ――。

この願望が、どれほど傲慢で、利己的なものであるか、おそらく水谷に自覚はないだろう。しかし、もちろん、作者の阿部共実は自覚的だ。というのも、前作『ちーちゃんは足りない』は、まさにこの呪いの言葉が、作品全体の核にあるからだ。

月曜日③

阿部共実(2014)『ちーちゃんはちょっと足りない』秋田書店、p.220

一見すると、これは、少女が互いの友情を確かめあうハートウォーミングな場面のようでもある。しかし、物語を読み通した者ならばみな頷くことだろうが、終盤にあるこの1コマの実相は、トラウマもののホラーシーンである。「ずっと友達」と宣言することの暴力性。共依存的友情関係。互いの足を引きあう仲間。
無垢な約束のように見えるものが、実は呪いの言葉であるという真実。それを突き付ける恐怖の物語が、前作『ちーちゃん』なのである。

だとすれば、同じ場面を序盤に配した『月曜日』は、この呪いをどう解消するのか…。

そもそも『月曜日』における水谷は、世界が変わってしまうことと、自分がその変化に馴染まないことに違和感を抱いているのだった。クライマックスでは、月野の言葉によって、この問題が鮮やかに否定される。

生きている限りどんな人間も前に進んでいる。時間を止めることは決してできない。
その渦中でどういう生き方を選択するかの自由が人生だ。
世界を変えることは人にはできないが、自分が変わることはできる。
それが可能性だ。(『月曜日の友達』2巻、p.169)

世界が変わってしまうのは当たり前だし、そこに馴染んでいくかどうかは自分で選べばいい。違和感の源泉は変われないと思い込む自分自身にあったわけである。
この言葉をうけて、水谷と月野は、それぞれ自分のこれからを語る。私(たち)は変わるのだと伝えあう。ここにおいて、水谷の悩みの一端は解消されるのである。

並の作品であれば、物語はここで幕を閉じてもよさそうなものである。

互いに少し成長することを決めた2人。それぞれの感情も高まっているわけだから、ここはひとつ朝日を浴びながら「大好きだ」などと叫び、恋愛関係に収まればよい。事実、『耳をすませば』の聖司は、まんまとそうして雫を抱きしめるわけである。

しかし、『月曜日の友達』が選んだのは、自分たちが「それぞれに変わる」という選択だ。

そうであるからには、2人の関係もこのままではいられない。それを分かっているからこそ、「ずっと一緒だよな」と言いながら月野を抱きしめる水谷には別れの予感があるし、「ずっと一緒」にいることを夢見る月野の独白にもそれが「夢」でしかないことが自覚されている。

互いの表情は、未来に対する希望にあふれていたさっきまでとはうって変わって、過去になりゆくこの現在を精一杯いつくしむような悲壮感に満ちているのである。

月曜日④

『月曜日の友達』2巻、p.173

『耳をすませば』の2人は、互いに手をとりあいながら歩むことを決意し、朝日に祝福されながら希望に満ちた未来を歩む。一方、それぞれの方向に歩むことを決めた水谷と月野は、闇夜のように互いを吸い込む未来を前に、今この一瞬の奇跡を思い出として心に刻もうとしている。

どちらの結末が優れているということは、勿論、ない。

ただ、互いに特別であり、「ずっと特別」であることを誓いあった2人が、未来において特別でなくなるなどということは、どこにでもある、ありふれた話だ。

そうした別れが当たり前のことで、仕方のないことだと私たちは知っている。知っているからこそ、それでも未来において「ずっと特別」であろうとする聖司と雫の決意には心から応援をしたくなるのだろうし、知っているからこそ、思い出の中でしか「ずっと特別」でありえないことをかみしめる水谷と月野のあり方には、自分ごとのように、心がふるえてしまうのだろう。


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