見出し画像

自由な学びと「成果」主義の狭間で

筆者にとっての英語の授業とは

私は小学校2年生の頃から、学校教育に「枠にはめられている」という違和感を覚え始めていた。他者からの期待を感じない貴重な時間が「英語の授業」だった。なぜなら、英語の授業中には「自己表現」という名のもと自由に表現する機会が豊富に与えられていたからだ。好きなもの、食べたいもの、、、誰かによって、期待されたり望まれたりする答えが存在しない。求められるのは、使用する文法や語彙など「表現方法」のみだ。つまり、日常生活にありふれていた「〜は良い」「〜は良くない」「〜するべき」などのジャッジの言葉から離れることができる。管理的な教育とは一線を画しているような印象があった。

英語教師としての葛藤

しかしながら、英語教師になってからはその認識が大きく変わった。英語を教える側になって初めて感じた葛藤がある。それは、「本当にジャッジの言葉で埋め尽くされた教育になってはいないだろうか?」という自身への問いかけに対して、即座にyesと答えられないというものだった。今日はその葛藤について記したい。

猫も杓子も「グローバル化」

教科書を見れば、裏表紙にも、表紙にも、こうした言葉が並んでいる。小学校でも、中学校でも。

「グローバル化」
「デジタル化」
「英語を学習する重要性が高まっています」

私はこうした言葉を見るたびに、正直こう思う。「もう、いいよ!わかったよ!十分!」同じ質問を生徒や児童にも投げかけてきた。「なぜ、英語を学ぶのだと思いますか?」驚くべきことに、小学生もこのように答えます。「グローバル化だから。」続けて「それではグローバル化って何だろう?」と尋ねると、皆首を傾げるのだ。

「生きていくために必要だから」


「グローバル化」と同じくらい多用される言葉がある。それが、「生きていくために必要だから。」だ。そこで「どのように生きていくために必要なのか?」と加えて質問をする。すると、多くの人はこう答える。「外国の人に道を聞かれた時に、答えられるから。」果たしてこの答えは、生きていくために英語が必要である例なのだろうか。そんなことを考えている間に、いつも私は同じ結論に行き着く。
「もう、そんな成果主義に傾いた話はやめようよ。」
「もう、目に見える結果の話は、十分。」

学びの本質とは何か

「生きていくために必要だ」と言われて、追われるように英語を学んでいる日本の現在について記したいと思う。思考することなく、無自覚的に他者や日本からの「期待」や「ジャッジ」に晒されながら学ぶ英語の例を出そう。

ガンディーのソルトマーチ

例えば、ある中学校の授業を視察したことが記憶に新しい。教科書を使用して、ガンディーのソルトマーチに関する発表原稿を読む授業だった。生徒は新出単語を学び、文法を学び、教科書に書いてある内容を熟読する。その後、生徒が教師に促されながら到達した結論は何だと思いますか?

「ガンディーはすごい人だなと思いました。」
 すごい人って、何でしょう。他にも、

「塩を作るために歩いたのがすごい。」という意見も。
さて、ガンディーは、塩を作るために歩いたのだろうか。

そんなことを考えながら、「グローバル化」という言葉に脅されるようにして学ぶ生徒がいる光景を日々眺めている。自身の授業も、同様に振り返るようにしている。

英語の授業で扱う教科書の内容や、読解の内容までもが「正しい」とか「正しくない」とか「すごい」とか、「すごくない」とか、知らず知らずの間にそんな風に教師から生徒へと伝達される恐れがあることが、私はいつも怖くて仕方がない。英語教師が持っていた「自由」とは何だろう。学びの本質とは、何だろう。

アフガニスタンにランドセルを送る

もう一つ例を挙げる。教科書の一部分には、ランドセルを貧しい国に送るというものがある。アフガニスタンの子どもを描いたイラストを、想像してみてほしい。紙面上で綺麗な服を着た日本人が話しているのは、上半身が裸だったり、髪が乱れていたりする外国の生徒についてだ。教科書を作っている先生方も、まさか目の前に、同じ国から来ている生徒が一緒に英語を学んでいるとは思わなかっただろうか。まさに、実際に、私が視察した授業では、その国出身の生徒もクラスにいた。本当に多くのことを考えさせられた。英語教師の役割とは、何だろうか。当たり前のように、「道徳的な」授業が終わった。

You have to の授業をしないこと

こうした疑問を抱える中で、とある論文を読み心に残っている。オーストラリアの先住民族に関する教材を英語の授業で使用することについて苦悶するブルースという英語教師に出会った。

I never said you have to feel sympathy, I didn’t say you have to feel empathy, we didn’t have any of those normative “you have to” conversations. But from the assignments I have read, they have pretty much all got there themselves because I think they can see what is reasonable and what is not. … When I am thinking back on my teaching, not instrumentally, [I am seeing] the importance of having those texts as strong and foundational to the curriculum.

Neither this nor that: the challenge of social justice for non-indigenous English teachers in First Nations Australian education contexts https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/04250494.2024.2314581#abstract

英語の授業が動物園作文にならないように

日本には、道徳的なまとめに終始することを良しとする文化があると感じる。「動物園作文」という言葉を聞いたことがあるだろうか。例えば、「最初に、キリンを見ました。その後、ゾウを見ました。最後に、パンダを見ました。よかったです。」のような作文だ。これは、学校で振り返りを書くように促され続けることに辟易とした生徒がなんとかその場を乗り切るために編み出した方法ではないかと思う。実際に私も、多用していた記憶がある。

英語教師が学びの手筈を整えなければ、動物園作文のような授業に成り果てるだろう。生徒は思考をしないまま、与えられたものをそのまま鵜呑みにし続ける。「成果」の有無に終始しながら、英語教師は、そうした環境を提供し続けることになる。それでは、ガンディーのソルトマーチのように誤解が生じてもおかしくない。

反省

私は、過去の7年間で数えきれないほど、そした授業を行ってきた。かつての生徒の皆さんには、日々申し訳なく感じている。本当に、ごめんなさい。

これからは改心して、まずは目の前の「英語教育」を自らが修正していこうと思います。具体的な方策としては、教材や教科書の内容を自律的に教授しようと思う。

つまり、教科書作成者の意図にさえも時には批判的なレンズで捉えて思考する。そういう姿勢が、まず重要であるように感じている今日この頃です。

いいなと思ったら応援しよう!