BFC6一回戦全作感想
中川マルカ「あいはむ」。命の連鎖は、喰うこと、まぐわうこと、繋いでゆくことの営み。人工的に命をつくること、自然に命をつくること、どちらでも命はつくられるが、自然の摂理に則ってゆく方が、雪が先か海が先か、どちらにしても、人智を超えたところであって、もう成り行きなのではないか。
深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」。鳩が燃えていようが、誰も助けない、見物して、あーだこーだいっている。どうでもいい他人のことをいっている。飯を喰いお喋りしている。鳩は燃えている。これが日本か。どうしようともしない。動くことができない。燃えているのが日常になっている。
両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」。ほんわかした轟音がぐわんぐわん鳴り響いている。にゃーにゃーと聴衆がゆらゆら体を揺すり拳を突き上げている。昂揚して天国にいった。ラストステージのライブは天界へと通じていて、おばあさんの叫びは亡きロックバンドのボーカルに共鳴し、一緒にやろうぜ、と。
紙文「いつまでも手をふる」。多分だけど、おこなったことに意味があって、その後の結果なんてどうでもいいんだ。たとえ奪われたとしても、おこなうことをやめず、やり続けることが大切だ。奪った奴は莫迦だ。莫迦は治らないかもしれないけどさ、いつか、喰らうよ。わたし達はやり続ければいい。
吉美駿一郎「遅かれ早かれ」。遅かれ早かれ幽霊になり忘れ去られる。しかし幽霊になり忘れ去られた後も世界は続いている。忘れ去られた幽霊は皆には見えないが、忘れ去られた幽霊本人は世界を見ることができる。幽霊になったとしても続くのである。続くものとして生きなければならないのである。
井中昭一「鍵穴の乙女」。理路整然とした変質的な妖しさがある。男が機械的な眼で捉えた女の描写はエロスティックでもあり、執拗なストーキングでもある。じわりじわりと昂らせてくるが、絶頂にゆかせてくれず歯軋りするも心を凪にし無感情に造花作りに没頭する。坦々とした性欲処理のようだ。
西川口圭「記憶に値しない人々」。かなしみだけが漂ってくる。なににもなれなかった人達が、なににもなれませんでしたよってただいっている。あきらめのような、無風の感情が、かなしみだけが漂っている。人生うまくゆきませんよって。でも、叫びが聞こえる。途轍もない劈くような叫び声が。
和泉眞弓「棄子(きし)」。織りなす色が、すべてを繋ぎ留めていて、千切れたり繋いだりしながら、遠くへゆきまた近くへ戻り、ルーツへとかえってゆくのかと。強力な赤が太く何処までも伸びてゆくが決して千切れない。そこへ青がしなやかに織り混ざる。みどりにはならず赤で青の道を突き進む。
鯵野三志美「十月の缶コーヒー」。秋冬の思い出がよみがえり、さびしさやらたのしさが寒さと共に感じられる。缶コーヒーは旨いというより、ただ流し込むかのよう。コールドでもホットでもどっちでもゆける季節で、気休めのように飲む。からっ風が吹いて、またさびしそうな寒い冬がやってくる。
磯崎愛「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。ここに来たことがもう素晴らしいのである。診断されない病いをブンゲイ界隈へ知らせその文章をブンゲイとして出す。この文章は紛れもなくブンゲイである。この文章が書かれた時点でブンゲイファイトクラブへの出場が決まったのである。
太代祐一「砂を送る 川柳二十句」。通常の体幹では出ないことばの組み合わせが何気なく置いてある。意味をなさない連なりだが、意味づけすることによって、新たな感覚を得ることができる。その感覚はとても大切で、たのしい。意味があってもなくてもたのしい。快感を覚えることばの羅列である。
文月悠光「すべての庭のために」。こころは未開の地であり、成長に連れこころも育ってくる。こころは本人にも分からないものだ。いろいろな出会いがあり、猫も、自分のこころというものを朧気に掴んでてゆくのだ。こころを与えたのは誰だ?大切な人だ。大切な人とこころが繋がっていたらいい。
結城熊雄「園部さんのこと」。園部さんの魅力に尽きる。巧望くんが園部さんのことむっちゃ好きだから魅力的な園部さんを描けるんだと思う。巧望くんが園部さんむっちゃ好きって伝わるもん。もしかしたら恋心もあったりもするのかも?!園部さんって人間なのかな?美しい海の妖精かもしれない。
春泥「誰も愛さなかったから」。誰も愛さなかったから首を括ったのでしょうか。このような亡くなり方だったので意識がずっとあるのでしょう。がらんどうの体は犬小屋となり温もりをもつ。犬だけには愛されていたのではないか。誰もってことはなかったのではないか。消えてはゆけないんだよ……。
伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」。亡者の声を録音すると魂までも蓄えてしまう機械である。であるなら街に幽霊が溢れたのは理屈が通る。畜魂機が原因であろう。しかし畜魂機など存在していなかったのではないか?これは詩である。畜魂機は詩のことばである。ただのことばなのである。
藤崎ほつま「綴る躰」。体にびっちり文字が書かれていて、ただ文字が書かれている訳ではなく、ちゃんと文章になっている。綴る人と綴られる人。この関係は親密でなければできない。何もかも知り尽くした二人だからこそ綴り綴られることができる。綴る方も綴られる方も有無をいわさず、一筆書き。
永瀬辻「天蓋に貼り付く」。天蓋に閉ざされた世界で、勇気を持った者が外の世界にゆこうとするとき、周りはざわつき、どうなった?どうなった?と聞いては、こうなったよと喋り出す。あんなことして、といい合う。勇気を持った者だけが、ネクストステージへゆけるのである。そして物語が始まる。
吉田棒一「友達」。無茶苦茶やないかい!これはもうイグ!なんでもありやないかい!こんなもん真面目に感想書けへんて!ごつい!これはごついって!でもさ、なんか夕陽が登ってきて、友達と肩組んで笑い合うみたいなやんちゃな青春が蘇ってこないかい。青春てありえへん無茶苦茶やったと思うよ。
由井堰「トランクルーム」。おおきくてひろい調べが聴こえてくる。調べは反響して響き渡る。わたしひとり切りのような気がする。わたしがおおきくて世界が小さいからかもしれない。肉塊が温泉に浸かっていやされている。どこでもないここでぽつねんとただいる。なんだろうなんかずれてるのかな。
和生吉音「ひとりじゃないなら ─ Neanderthal girl meets CroMagnon boy ─」。人類は垣根を越えられるはずである。なんでもない優しさが人を解してくれて、喜びとなる。喜びは嬉しくて通じ合うことができる。親切心が心をひらかせ仲間となることができる。かつて人類は仲が良かったのである。
若山香帆「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった」。なにもなかったような手触りで、ふと気づいたら水浸しになって広い森の真ん中でぽつねんと突っ立っている。幻を見ていたかと思ったが間違いない感じがある。間違いなく私の湖である。湖こそが私である。
大竹竜平「不審な刃物」。忽然と現れた空飛ぶ刃物とはなんだったのか。意思を持った生き物にも見えた。いったいなにがしたかったのか。国も民衆も動かされ、振り回された。人々はおかしなことをたのしみ、防衛する人達は真面目に取り組む。結局なんだったのか。きっと不審な刃物だったんだろう。
岸波龍「窓」。ただ窓を眺めていただけなのに目眩く何か起こる。次第に自分も巻き込まれてゆき、当事者となり恐怖を覚えることとなる。凄く頼もしいと思っていた人も実はヤバくて、もうみんなヤバくて、まともな人はいないのかなって、世界を疑うようになってしまう。正義の味方だってヤバい。
岩月すみか「まゆ子なんか嫌い」。好きやないかーい!まゆ子のことめちゃめちゃ好きやないかーい!嫌い嫌いゆうとるけどめっちゃ好きじゃん。好きだから嫌いになっちゃっただけじゃん。本当は好きじゃん。そりゃまゆ子に振り回されまくったけどさ、超ムカつくけどさ、仕返ししたい程好きじゃん。
飯野文彦「みっちゃん」。誰でもあり誰でもないいるのかいないのか分からない存在が確かにあって、でもその存在は確かなのか分からない。いったい誰なのか。あの子か。あの時のあの子か。そうだあの子だ。いや違う。では。誰なのか。そんな話をしていると、現れるのだ、現れた、あなたはだぁれ?
酒匂晴比古「わたしが七歳だったころ」。七歳というのは特別な年齢だったのかもしれない。特別な物を感じれる歳だ。自然が味方していた。この歳にすべてを知ったはずなんだ。でもみんなその記憶がすっぽり抜け落ちている。抜け落ちるということも記憶にない。七歳の頃が一番美しいときでもある。