生きるに尽きる
余命一年である。
先程、神に宣告された。
ほう、そうか、とうなずいた。
余は驚かなかった。なぜといって、そんな気がしていたからである。有り得るな、と。
特に前兆などはなかった。強いていえば、左膝が痛かったくらいだろうか。
なんとなしに心の準備はできていたのである。もうそろそろではないかと思っていたところだ。そんなとき、曇天の道すがら神とすれ違った。すれ違いざま、ぼそと「余命一年である」と囁かれた。そして余は「ほう、そうか」とうなずいた。ヤクの取り引きのような一連の流れであった。余はとぼとぼするでもなく背筋を伸ばし明日へと歩いていった。
余の人生としては思い残すことはなかったが、妻のことだけは気がかりではあった。妻のためだけには生きなければならなかった。余命一年、どう生きるか。
自暴自棄になるでもなかった。やりたいことはなんでもやっておこうとなるでもなかった。まるで死ぬことなど知らないように普段通り過ごした。常日頃からやりたいことはやっていたので、やりたいことをやっておけばよかったという後悔もない。
余命一年。くるものなら早くこい。余は怖れてなどいない。待ち遠しいくらいである。
残されたもの達には申し訳ないと思っているが、死はどうにもコントロールできない、すべてのものに訪れる究極の平等なのである。どんなに偉い人にもとんでもない屑にも最終的には死が訪れるのである。死とは無だとしたらなんと残酷なことであろうか。しかし結論が無だとしても、生前の生き方が後世へと必ず跳ね返ってくるのだから、やはり納得のゆく生き方をした方がよいのではないか。
妻になにを残せるだろうか。死ぬのだから金を使いまくる、というわけにもゆかない。使える範囲で不自由ないくらいに使う。金がないのなら金のかからないたのしみ方を見つけよう。金は大事だが金ではないのである。おそらく大切なのは死なないことである。
会話を大切にし、思いやりを持ち、感謝する、そういった当たり前のことを当たり前にし、ともに暮らしてゆくこと。ときには喧嘩もし、厭なイベントを乗り越え、素敵なイベントをたのしむ、ともに。ともに暮らす。
なにげない毎日をともに暗いときは暗く明るいときは明るく明暗を持って生きてゆく。
余命一年であると妻に告げたら妻は泣き崩れた。ほぼ怒っていた。運命の理不尽さになすすべなく打ちひしがれていた。わたしも死ぬといわれた。余はあなたは生きてくださいといった。
ショックを受けながらも日々を重ねることによりショックも和らぎ受け入れ態勢へと移行しもう生きれるだけ生きるしかないと吹っ切れ生きた。
生きて生きて生きた。
そして一年が経過した。
余は今日死ぬ。心身ともになんの不調もない。どうやって死ぬのだ? タイムリミットになりぽっくり逝くのか?
余はどこで死ぬのか思案し、どうせなら思い出の地で逝こうと決め、今日も余命宣告を受けたときと同じような曇天の道すがらをゆくと、前方から黒ずくめの男が歩いてき、左手が鈍く光った。
なるほど、通り魔か。
余は逃げもせず真っ直ぐ歩いて近づいてゆくと、黒ずくめの男の左手には刃物でなく鈍色のスマホが握られているだけであった。
すれ違いざま「ごめん、ミスっちゃった」とぼそと囁かれた。
どうやら神様は間違いを犯したようだ。
余は神様のミスで余命宣告を受けてしまい、ミスの訂正でやっぱり生きることになった。
次の日朝起きると余は生きていた。
妻に「俺、まだ生きるみたい」というと妻は「よかったあ、よかったあ」と泣いて泣いてよろこんだ。
余は「ほう、そうか」とうなずいた。