地方空港の国際化の苦境(後期用教材)
1. 中部-デトロイト線
この路線の歴史は古く、1998年以来ということですから、まだ中部国際空港(セントレア)が開業する前のことです。2005年までは東京の羽田、大阪の伊丹と同様に、名古屋の都心に比較的近い内陸部の豊山町に国際空港が置かれていました(現 県営名古屋空港)。
地方都市と米国のニューヨーク等の大都市を直行便で結んでも需要が限られることから、日米両国の自動車産業の中心地を結ぶという路線は、地場の産業を考慮したもので、地方空港としてしごく適切な解であったと考えられます。現状で中部空港と米国本土を結ぶ唯一の直行便であったそうです。
2. コロナ禍による航空需要喪失
これは下記のグラフにみるように、一目瞭然の著しいものです。ちなみに「名古屋飛行場」というのは歴史的な経緯のある呼称なのですが、ここでは現在の国内線専用空港としての、上記の県営名古屋空港を指しています。
2005年から利用が急減しているのは、べつだん新型コロナウイルス禍によるものでも何でもなく、需要がそのまま新規に開港した海上の中部国際空港に引き継がれたことによるものです。いわゆる「リーマンショック」の危機を乗り越えて、地道に利用者を増やしていた矢先のコロナ禍であったことがうかがえます。
同路線は、新型コロナ禍で一時運休した後、2021年4月に週1便で運航を再開し、22年には週3便に増やしていたものの、利用客の回復が想定に届かなかったとのことです。
3. トヨタ・グループの存在
初代の空港会社の社長であったトヨタ自動車出身の平野幸久氏には筆者も直にお会いしたことがありますが、今回本稿を執筆するに当たり、あらためて調べて驚いたことには、初代以来5代連続で空港会社のトップにトヨタ出身者が就いているといいます。仔細に見ると、もともとの出身は技術系であったり販売系であったりしています。社長は退任して会長に、会長は相談役に就く訳ですから、顧問的な相談役も含めれば常に三代にわたるトヨタ出身者が会社の最上層にいる訳です。トヨタ・グループとして出張の足に、この空港をいかに重視していたかがうかがわれます。
余談ですが筆者も欧州からの帰途、隣席の英国人と会話していて、英国トヨタで働く上級のエンジニアで、今から本社での会議だったか研修に呼ばれて豊田市に向かうのだという話を聴いた覚えがあります。リーマン・ショックのあおりで会社から用意されるホテルのグレードが下がったと言って悲しんでいて、一緒に飛行機を降りて出迎え口までゆきましたら、迎えの人の持っていたその日の目的地のボードを一瞥すると、ホテルのグレードが元に戻ったことをただちに察知していましたので、何度となく行き来していたのでしょう。彼と話をしていて、きわめてコスト意識に敏感な企業であるということが、肌で感じられたものです。
路線の運休はエアライン側(この場合、米デルタ航空)が決めることですから、空港会社の慰留も効かなかったのでしょう。23年1月時点で、国際線の旅客便は依然としてコロナ禍前のピークの2割に留まっているといいますから。
なお冒頭の画像の元の記事は下記です。