「徴用工問題」をリアルに考える
そこで「日韓歴史問題を考えるマガジン」の記事第二弾は、「徴用工問題」のオモテとウラについて。年末に向けて再び同問題が過熱することは必至というなかで、真実はどこにあるのか。レポートを読んで頂きたい。(記事中の徴用工という言葉は、広義の意味で使用しております)
日本人のほうが、いい人が多かった
「日本人のほうが韓国人より、いい人が多かったと私は考えています。私が炭鉱で働いていた時代、日本人にはとても親切にされた思い出があります」
こう語るのは、ある元徴用工氏だ。彼は徴用工として日本で働いた経験を振り返り、「私は日本人が好きでした」と語ったのだーー。
2019年11月23日に韓国政府が下したGSOMIA継続の決断以降、日韓関係の焦点として再浮上しているのが「徴用工問題」だ。
元徴用工が日本企業を訴えた裁判で、韓国大法院(最高裁)は日本製鉄(元・新日鉄住金)、三菱重工に対して、相次いで賠償を命じる判決を下した。同判決を契機に韓国内では徴用工問題は“強制連行・奴隷労働”の歴史だったという議論が沸騰し、ソウル龍山駅前などの各地に徴用工像が相次いで建設される事態となった。
韓国大法院判決では日本企業が元徴用工に対して1億ウォンの慰謝料を支払う判決が出た。さらその後韓国側の妥協案として元徴用工を対象に1~2億ウォン(約1~2千万円)を支払うプランが発表するなど、慰謝料は高騰の一途を辿っているのだ。元徴用工はその数、約15万人といるといわれている。もし全てを補償するとなれば支払うべき金額として想定しているのは3000億ウォン(300億円)、多ければ数兆円規模にも達するという見方まである。
その金額を見ていくだけでも、問題解決の困難さが伺えるというものだ。
はたして徴用工問題とは何なのか。私は元徴用工の生の声を拾うべく韓国に飛んだ。
ソウル市の郊外、城南市に元徴用工に老人がいる。名前はA氏。彼が日本に渡ったのはは15歳の時だったという。
「私は自分の意志で日本に行きました。当時、父親が傷害事件を起こして逮捕され、罰として日本で強制労働を命じられた。しかし父を失うと家族は困る。そこで私が代理として『日本に行く』と手を上げました。年齢も18歳と偽りました。日本での働先は、福岡県飯塚氏にある三菱炭鉱でした。炭鉱には私以外にも何百人もの徴用された韓国人がいました」(A氏)
3年間、徴用工として日本で働いたA氏。しかし、「日本人からの差別を感じることはなかった」と振り返る。
A氏は日本人に悪感情はないという。私が「徴用工に慰謝料は必要だと思うか?」と問うと、崔氏はこう語った。
「(元徴用工が)裁判を起こしても何も得られるものはないよ。この高齢でお金を手にしてもしょうがないだろう。私はお金もいらないし、補償をして欲しいとも思わない」
「暴力はなかった」と語る元徴用工
同じように差別はなかったと語るのはB氏だ。B氏は20歳のときに地元郡庁からの徴用命令を受取った。行き先は佐賀県だった。
「私が派遣されたのは佐賀県西松浦郡の造船所でした。私は資材課に属し、工場内で出る屑鉄を集める仕事をしていました。集めた屑鉄は、鉄工場に輸送され再び製鉄されるのです。造船所で働く2000人のうち、700人が朝鮮人でした。朝9時から4~5時頃まで働き、日曜日ごとに休みはありました」
同造船所は、当時、佐賀県に存在した軍需工場で、二等輸送艦や人間魚雷などが大量建造されていた。
戦争末期ということもあり、食料事情は同じように厳しかったようだ。
「そこはおかずが良くて、美味しいブリとかトビウオが一~二匹よく出た。でも原則はお米と麦を混ぜたご飯を一杯しか食べられない。だからお腹が減る。あるとき、ご飯を盗み出して山中で食べた。そのことがバレて、日本人管理者に殴られたこともありました。でも、(ルールを破ったので)たいしたことではないと思っています。基本的に日本人が朝鮮人に暴力を振るうとか、虐めるようなことはありませんでした」
B氏の証言もまた、韓国内で語られている“被害者像”とは異なるものだった。
「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。そのときは(植民地時代なので)日本人の命令が全てですから、言う通りにするしかなかった。徴用工時代がいい思い出とはいえませんが、学校で日本語を勉強していたので日本語で職員と話しを出来たのは良かったですね。ただ鹿児島や宮崎県の人だけは方言がきつくて、何言っているかわからなかったですけど(笑)」
元徴用工の口からは、全ての人間が“強制連行・奴隷労働”に苦しんでいた訳ではないという事実が語られた。一面的な被害者像だけでは徴用工問題は解決しないだろう。
新資料が雄弁に語る「真実」とは
拙著「韓国人、韓国を叱る 日韓歴史問題の新証言者たち」(4月2日発売 小学館)では、私が取材のなかで発掘した徴用工に関わる「新資料」も紹介している。
その資料とは呂運澤氏の発言記録だ。
呂氏は日本製鉄相手の徴用工裁判において、被害者の一人として名を連ねていた人物(故人のため 現在は遺族が原告となっている)だ。つまり、徴用工問題の根幹を成している徴用工裁判において、原告となっていた重要人物の証言記録であるということがいえるだろう。
呂氏はかつて日本で対日補償請求裁判を起こしていた過去がある。私が入手したのはそのとき彼が日本裁判用にしたためた「上申書」である。
元徴用工の資料や証言を書いた一冊。
呂氏は上申書の中で日本行きの経緯をこう話している。
〈一九四三年八月ころ、私は、日本製鉄株式会社大阪製鉄所第二期訓練隊100名の募集が平壌であるという新聞記事を読みました。
当時、技術を身につけたいという気持ちが大きかった私は、この記事に関心を持ち、同年九月六日ころ、国民学校の校舎で行われた説明会に出席したところ、陸軍中尉キタガワ、陸軍軍属カワイ。ソキチほかの人々から説明があり、大阪で二年間の技術訓練ののち朝鮮の清津製鉄所または兼三浦製鉄所において指導者として勤務するという内容で、私は、ますます興味をそそられました。
当時、「寿町理髪館」(筆者注・呂氏が勤務していた理髪店)主人の江藤さんは、「理髪店見習いを始めたばかりなのに」と言って、私が行くことに反対しましたが、朝鮮人の同僚たちはみな、日本に行って立派な技術者になれと言って賛成してくれたので、私は応募することに決めました〉
前述したように韓国内では徴用工問題は“強制連行・奴隷労働”であるとされてきた。しかし、この上申書を見る限り呂氏が日本に行くことになったのは「募集」に応募したからであり、「強制連行」ではなかったことがわかる。当時、日本での裁判用に支援者が呂氏をヒアリングした「『太平洋戦争犠牲者遺族会』原告 個別調査事項」という資料を見ても、呂氏はヒアリングに対して「平壌国民学校で募集を受けた」と回答をしている。
こうした事実は、いかに徴用工を巡る議論が大雑多なものであるかということを示唆している。
呂氏の上申書でもわかるように、じつは元徴用工には様々な背景がある。つまり画一的な補償を行うには前提条件がバラバラ過ぎるのだ。
まず問題解決策を練る前に、改めて徴用工とは何か、その真実を検証する作業が求められるべきではないかーー。
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