【ショートショート】「心のウイルス世界大戦」
コロナウイルスのパンデミックが終息し、世界はようやく平穏を取り戻したかに見えた。しかし、新たな脅威が人々の生活を再び一変させるとは、誰も予想していなかった。
日本で最初に変化に気付いたのは、東京の小さなカフェで働く青年、信吾だった。ある日、信吾は店に来た客の注文を取ろうとして、彼女が何も言わないうちに「カプチーノを1つですね」と口走ってしまった。
「えっ?」と驚いた顔をする彼女。彼女の心の中では、「どうして私がカプチーノを頼むって分かったの?」という疑問が渦巻いていた。
「すみません、つい…」と信吾は慌てて謝りながらも、自分自身の行動に戸惑った。
その日から、信吾は他人の心の声が聞こえるようになった。最初は偶然だと思っていたが、同じようなことが繰り返されるうちに、信吾は怖くなり、インターネットで調べ始めた。すると、SNS上で同じ経験をした人々の声が次第に増えていることに気付いた。
他の人の心の声が聞こえるこの現象は、コロナウイルスの時のように、今や世界中に広まっていた。
医学界と心理学界は共同で調査を開始した。この現象は「心理感染症」と名付けられ、その原因を探ることになった。世界各地で進められた研究の結果、この病気は新たなウイルスによるものだと判明した。
科学者によれば、このウイルスは感染者の脳内にある特定の部位、特に感情や思考を司る前頭葉を刺激し、他人の心と思考を電気信号として感知できるようにする。具体的には、このウイルスはシナプス間の電気信号の強度と周波数を変化させ、脳が他人の心や思考の電気信号を受信し解読できるようにしているらしい。
他の人の心や思考を感知できる距離は、おおよそ10メートル以内。この距離は個人差があり、脳のシナプスの感度やウイルスの感染度によって変動する。最大で30メートルまで感知できるケースも報告されているが、一般的には10メートル前後が標準だ。
最初の感染源は不明だったが、ウイルスの感染力は非常に強く、空気感染で瞬く間に広がるという性質を持っていた。
感染者は自分の意思に関わらず他人の心の声を聞いてしまうため、プライバシーが失われ、社会は混乱に陥った。
各国の政府は事態を重く見て、「心理感染症」について、余すところなく公表した。
「自分たちの心の声が、もう隠せないなんて…」と、信吾はカフェの片隅で頭を抱えた。感染している彼には、他人の心の声が次々と流れ込んでくる。ラジオのような一方的な音が絶え間なく響いていた。
新しいウイルスは、世界中の人々の生活を一変させた。誰もが他人の心の声を聞くことで、信頼と不信、友情と裏切りが入り交じる新たな現実が広がっていた。
一方で、この新たな能力は多くのメリットももたらした。例えば、ビジネスの交渉や恋愛において、相手の本音を知ることができるため、無駄な誤解や不信感が減少した。
交渉の席で、企業の代表者が心の声を通して相手の本心を聞き取る。
「なるほど、彼らは本当にこの取引に前向きだ。私たちの提案をもう少し押してみよう」と、心の中で自信を持って思う。
「確かに、相手のリスクへの懸念は分かるが、私たちの利益も守らなければ」と、相手方の代表者も心の中でつぶやく。
このようにして、しゃべっていないのに、迅速かつ効率的な合意が成立し、ビジネスの発展に貢献することができた。
しかも、相手の心の声は、自分の母語で聞こえてくるという、おまけ付きだ。国を超え、さまざまなビジネスが生まれていった。
また、恋愛においても同様である。デートの最中、2人が心の声を聞き合う。
「彼女は本当にこのレストランを気に入っている。来て良かった」と、彼は心の中で安心する。
「彼の真剣な思いが伝わってくる。私も素直にならなきゃ」と、彼女も心の中で決意する。
こうして、誤解や疑念が減り、より深い信頼関係が築かれていった。
さらに、犯罪捜査においてもこの能力は革命的だった。容疑者の心の声を聞くことで、うそを見破り、真実を突き止めることが可能となった。
「彼は事件当日に現場にいなかった。アリバイは確かだ」と、捜査官が心の声を通して確認する。
「でも、彼の友人が何か隠している気がする。もう少し調べてみよう」と、別の捜査官が心の中で警戒する。
「絶対に、しらを切り通す」そんな、犯人の心の声も、捜査官にはバレバレだった。
このようにして、犯罪率は急激に低下し、社会全体が安全になった。
しかし、そのデメリットは計り知れなかった。家庭内や職場での隠し事が全て暴かれ、信頼関係が崩壊するケースが続出した。
職場では、「上司は本当に私の提案を評価していないんだ。やりがいが感じられない」と、社員が仕事をしながら、心の中で不満を抱く。
「彼は、私に対しても仕事に対しても、不満があるのか。どう対処すべきか」と、上司が心の中で悩む。
また、家庭内でも同様である。
「彼が私の過去の秘密を知ってしまった。もう信頼は取り戻せない」と、妻が心の中で悲しむ。
「彼女の心の声が聞こえる度に、胸が痛む。どうすればいいんだろう」と、夫が心の中で苦悩する。
人々は他人の心の声を聞くことに疲れ、精神的に追い詰められていった。
各国政府はこの事態に対応するため、急遽対策を講じた。公共の場ではマスクの着用が義務付けられ、特殊なフィルター付きのイヤホンが配布されるようになった。また、心理カウンセリングの需要が急増し、多くのカウンセラーが育成された。
「これで少しは安心できるわね」と、通勤電車の中で隣に座る女性が小さな声でつぶやいた。彼女の顔には安堵の表情が浮かんでいたが、その瞳にはまだ不安の色が残っていた。
しかし、これらの対策も根本的な解決にはならなかった。人々の心は疲弊し、社会全体が緊張状態にあった。公園で一人ベンチに座る老人が、深いため息をつく。
「ちょっと前まで、ここで子どもたちや、その親御さんたちが、和気あいあいとしていたのに」
彼のつぶやきは風にかき消される。
人々は心の平穏を求め、自然と距離を取るようになり、町は静まり返っていった。ショッピングモールも閑散とし、以前のような活気は失われていた。
1年がたち、科学者たちの努力によって、ついに「心理感染症」の治療法が開発された。それは特定の酵素を利用し、脳内の異常な電気信号を遮断する薬だった。この薬は驚くべきスピードで量産され、世界中の人々に配布された。
「これは、私たちの希望の光です」と、テレビに映る各国のリーダー、また専門家や研究者は興奮気味に語った。
「この薬があれば、私たちは元の生活を取り戻せる」
薬の効果は絶大で、数カ月以内に感染者のほとんどが回復した。心の声が聞こえなくなり、社会は次第に元の状態へと戻っていった。
カフェでコーヒーを楽しむ若いカップルがほほ笑み合い、公園には、また親子連れの姿が戻ってきた。にぎやかな笑い声が町中に響く。
「やっと、普通の日常が戻ってきたね」と、カップルの1人が言った。その言葉に、もう1人も大きくうなずいた。
しかし、完全に元の世界に戻ることは決して簡単ではなかった。これはコロナウイルスの時と同じだった。
人々は再びプライバシーを持つことに安心感を覚える一方で、他人の本音を知ることができない不安感も抱えていた。また、心理感染症の経験を通じて学んだ多くの教訓を社会がどう活かすかが課題となった。
「やっぱり、あの時のほうが楽だったよな」と、カフェの一角で話し込む若者が言った。「何を考えているのかすぐに分かってさ」
「でも、それって怖くなかった?」と友人が反論する。「自分の思っていることが全部知られちゃうんだよ」
メリットとして、心理感染症によって生まれた新たなコミュニケーションの形態が残った。人々は相手の心の声を聞かなくても、より深い理解と共感を持って接するようになった。
「今は、ちゃんと相手の目を見て話すようになったし、前よりも気持ちを伝えやすくなった気がする」と、カフェのカウンターで信吾が常連客に話していた。「言葉にしなくても、少しの表情で分かるようになったよね」
一方で、デメリットとして、再び秘密や隠し事が増え、信頼関係が再構築されるのには時間がかかった。
「うそをつく人が増えたって聞いたことある?」と、別の客が言った。「昔みたいに、また誰も信じられなくなるんじゃないかって心配だよ」
信吾はカフェで働きながら、これまでの経験を振り返っていた。彼は心の声を聞く能力を失ったが、その経験を通じて得たものは大きかった。人々が再び信頼を取り戻し、共に新たな未来を築くためには、お互いの心を尊重し、理解し合うことが重要だと彼は考えた。
「心の声が聞こえなくても、相手を理解することはできる」と、信吾は自分に言い聞かせた。「言葉と思いやりで伝えるんだ」
そして、信吾は心の声が聞こえない世界で、自分の心の声を他人に伝えるために、言葉と思いやりを大切にして生きていくことを誓った。
こうして、世界は再び平穏を取り戻し、新たな一歩を踏み出したのだった。
(あかみね)