誰かの思う「面白さ」は私のものじゃない
「面白い」とは人生の正解なんだろうか。
キナリ杯のお陰で最近やたらと「面白い」という単語をよく見かける。
面白いことは私も好きだ。しかもキナリ杯の応募条件である「面白さ」はその人が思うもので良しとされる懐の深いものだった。
私は「面白い」ことが好きだけれど、だからと言って「面白い」ことを強要されるようなことはとても嫌いである。
特に職場での関係でそれを求められることが多かった。
つい先日も、旦那さんが飲み会の席で上司からもっとお笑いを学べとダメ出しされているのを直接目にした。
その時はちょうど話題になっていたM1の優勝者か誰かのネタを知らないということで非難されていた。宴席のことだし、そこまで真面目な話ではなかったのかもしれない。
でもその上司はお笑いを学んだ方が仕事にも活かせるし、往々にして仕事ができる人はお笑いもできるしコミュニケーションも円滑に回せる。自分だって関西人だからと言ってできる訳ではなく、ちゃんと本を読んだり何度もビデオを見て研究をしているという話をしていた。
その上司の言い分も一理あるのだろう。
私も以前の上司に職場の方とコミュニケーションを取るために話題のアプリゲームをDLして会話に入った方が利口だと言われたことがある。休憩時間に楽しく会話ができれば仲も良くなり仕事もしやすくなる。それくらいの労力で円滑に仕事が回る一つの要素になるなら惜しまず自分ならするけどな、ということをダメ出しされた。
だが考えてほしい。私はコミュ障だ。
結局アプリをDLして遊んでみたって大して会話は弾まなかったし、そんなことしなくても仲良くなれる人とはなれるものだ。
私にダメ出しした上司は万事が万事人を駒として操ろうと考えるような人だったので(とはいえ仕事の結果は出すし、本人もそれで問題ないと考える人だったので)根本的に考え方が合わない人だった。
旦那さんの上司も、私にダメ出しした上司も、考え方が間違っているとは思わない。そういうやり方もあると思う。
でも、それが人生の正解なのかは疑問だ。
私は、旦那さんがお笑いを勉強して、ボケてボケてボケ倒したり、あらゆることに鋭く突っ込めるようになったとしても、全く嬉しくないし、そうなってほしくないと心から思う。
私はいつもおっとりしていて、流行りのネタなんて知らない旦那さんの柔らかで素直な言葉がすごく好きだ。
苦手なことなのに、時々絵画教室のボブロス先生の(吹替の)モノマネをしてくれる。本人は「似てないよ〜」と言うし、多分上司にはウケないネタだと思うけど、
でも私は、旦那さんの雰囲気や喋り方がとってもボブ先生に似ていると思うし、いつもいつも笑ってしまう。
何かや誰かにかぶれた旦那さんらしくない「面白さ」を備えてほしくない。今で充分魅力的だから。
だけど、周りの人はもっとわかりやすい「面白さ」を求めてくる。こういう外向的な性格を求められることに私は本当に窮屈を感じて仕方がない。
私はガンガンの内向型人間だ。
「内向型人間の時代」という本をご存知だろうか。
□「グループよりも一対一の会話を好む」
□「文章のほうが自分を表現しやすいことが多い」
□「ひとりでいる時間を楽しめる」
□「周りに比べて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないようだ」
□「聞き上手だと言われる」
□「大きなリスクは冒さない」
□「邪魔されずに『没頭できる』仕事が好きだ」
□「誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい」
□「他人と衝突するのは嫌いだ」
□「考えてから話す傾向がある」
□「外出して活動した後は、たとえそれが楽しい経験であっても、消耗したと感じる」
□「忙しすぎる週末よりなにもすることがない週末を選ぶ」
□「一度に複数のことをするのは楽しめない」
チェックが多ければ多いほど、内向型の人間の傾向があるということらしい。
まるで自分のことを言われているようだと思った方、あなたは私と同じゴリゴリの内向型人間です。
多分社会や特に職場においては外向型な人間の方がやりやすい環境が出来上がっているのだと思う。だから、私はこれまでのそう言った雰囲気ややり方に息苦しさを感じてしまう。
例えばどんなに楽しかった友達との時間も家に帰ってくればどうしても消耗してしまってぐったりするし、行ってしまえば楽しいのに、そもそも出かける前にひどいプレッシャーを感じて行きたくないという気持ちになってしまう自分は、人間的にくそだなとよく思っていた。
でもその辛さに対する答えがこの本には書かれてある。
もう一度伝えよう。
「内向型人間の時代」という本だ。もし気になった方は是非。
どんな「面白さ」もその人にとっての感じ方がある。
世界中の全員が「面白い」と思えるものはおそらくないだろう。
繰り返すが「面白い」ことは好きだ。面白くあろうとする心も素敵だと思う。
でも、ボケにはボケで返すべきだとか、突っ込んでよ、と言われて心が引いてしまう自分がいる。
勉強して出直せばと言われるともっとつらい。
会話を無視しているつもりなんてない。努力もせずに放棄しているつもりもないけれど、お笑いの本を読むつもりもないし、ビデオを何回も見て研究するつもりもないので、もしかしたらそう思われても仕方ないのかも。
だけど、誰もがお笑いや「面白さ」を追求する会話をしなければならない環境は私にとっては本当に窮屈だ。
旦那さんは何回もお笑い動画を見ているけれど、たぶん関西人の上司のようにチャキチャキなお笑い人にはなれないだろうなと思う。ならないでほしい。
自分が窮屈だから、とこちらの言い分しか書きつらねられなくて、それも申し訳ない。全く論理的でないことはわかっている。
でも、私はこれまで仲良くしてくれた人たちが決して私や旦那さんに自分の「面白さ」を求めなかったことを知っている。
特段「面白さ」を狙っていない言動行動を「面白い」と肯定してくれる人たちばかりだった。
「面白さ」は絶対に千差万別だ。人によって違う。どんなことに「面白さ」を感じるかはその人の感性による。
だから、その人のアイデンティティを殺すような誰かの「面白さ」を押し付けないでほしい。「面白さ」が一致しない人がいるように絶対そのままの自分でも「面白い」と言ってくれる人がいると思うから。
もし目に見えてわかりやすいお笑いのような「面白さ」を求める人がいても、それも絶対に間違いじゃないと思う。
私がただただ強く伝えたいのは、
そのままで十分面白くて楽しくて素敵でかわいくて頭良くて優しくて家族思いでめちゃんこ素敵でクマみたいにチャーミングで私には勿体無いほど心が澄んだ私の旦那さんに、他人の思う「面白さ」を強要してほしくないということだけだ。
ダメ出しなんかされなくったって私にとってはもうそのままで完全完璧に
「面白い」素敵な旦那さんなんだからな!!!!
以上!!!!