この愛情の源泉
ウォークインクローゼットの中、少し窮屈そうにも見える広い背中が見えた。
どう見ても本人のものではない、ふくろうのキャラクターが可愛くでかでかと刺繍されたトップスをハンガーにかけている。
私のその服がいつもよりも小さく見えるほどアンバランスなその光景に、どうしてか胸がきゅっと温まった。
頼んでもいないのに、何も言わず、ズボラなわたしの代わりに乾いた服をクローゼットの中へと掛けてくれている。
旦那さんはいつもこうだ。
何も言わないところでそっと優しく愛してくれる。
これが愛の形かと言えば食い違っているかもしれないし、旦那さんにそんなつもりなんて微塵もなく、ただ片付けのためだけに手に取っていたのかも知れない。
だけど、私はその光景がどうしようもなく愛しく感じられた。
私だって普段旦那さんのシャツを何枚もハンガーに掛けてクローゼットにしまっているのに、どうして同じことをしてもらう側になっただけでこんな気持ちになるのだろう。
多分、旦那さんは私のそんな姿を見ても「ありがとう」と思うだけで、胸がキュッとなったりはしないだろうと思う。
以前にも書いたけれど、やはり私は旦那さんにいまだに恋をしている。
ちょっとしたことが愛しく、胸に迫ってくる。
そんな中、最近はよく女性差別についてネットで目にする機会がある。
結婚に逃げ込むしか選択肢がなかった人、主婦は奴隷と同義のように扱われる人、「嫁」「奥さん」「家内」「主人」というなんの違和感もなく使われてきた言葉の意味。
気づかない内に浸透しきった差別意識が恐ろしくなる。
こんなことに愛しさを感じる私は正しくないのかもしれないとも思う。
男性が家事をすることを当たり前になってほしいとも思うし、だからと言って感謝を忘れることもしたくないとは思う。それは両立できるはずなので、自分なりの道を見つけようとも思う。
幸い私の旦那さんは家庭の味が恋しいからとか、仕事が忙しくて家のことができないからとか、そんな理由で結婚を決めたわけじゃない。
お互い「これからもずっと一緒にいたい」という気持ちだけだ。
制度的にも婚姻関係を結ぶ方が一緒に生きやすいというのは、意識的には考えていなくても刷り込みのようにこれも私たちに浸透していたとは思う。
日本に差別はないとか、平和だとか民度が高いとか、そんなことは決してない。
ちょっとした言葉一つとっても男性中心の社会であることがわかる。
そんな男性と結婚し、妻として生活している。
その中で「旦那さんに恋して幸せ」ということだけを簡単に言っている私はこのままでいいのか時々不安になる。
地元での行事では若い女の子がお酌に行くものだと教育され、女は正月は外に出るなと躾けられ、結納金は娘をやる代わりのお金だと説明された。
いつもどこかで疑問に思いながらも、それが常識なんだと飲み込んできた。
私の中に染み込んだ差別意識から、それにそぐわない旦那さんへの偏った愛情が生まれていたらどうしよう。
私はただ、今日あった嬉しいこと愛しいことを書き連ねていただけだったのに、どうしてこんなところまできてしまったのか…何も考えずに筆を進めるのは良くないかもしれない。
でも、ここに辿り着いてしまった。
でもだからといって焦ることはない。
もし間違った愛情だとしても、それでも旦那さんを愛していることには変わりない。私は旦那さんを大事にするだけだ。
そして女性の認められていない権利や、強要されているもの、これまで幾重にも刷り込まれてきた不必要な常識を次の世代に引き継がせないために、ちゃんと考え、言葉にできるようにしたいと思う。