2015.11.7「Bootleg」批評会
11月7日に、土岐友浩さんの『Bootleg』批評会に行ってきました。
批評会レポートというよりは、自分が思ったことをなんとなく書いていこうと思います。
一か月くらい経っているので記憶があいまいです。すみません。
土岐友浩さんの短歌はTwitterなどで引用されていた
本棚が足りなくなって生活のところどころに本はあふれる
尽くすほど追いつめているだけなのか言葉はきみをすずらん畑
などは知っていたのですが、そんなに熱狂的に好き! というほどではありませんでした。
むしろ、淡いなあ、という印象でした。
助詞の使い方や言葉の流れがちょっと不思議だなーとは思いましたが、言葉の弱さというか淡さのせいでするするっとすり抜けてしまいました。
そのとき北大短歌会のblog(http://hokutan12.exblog.jp/24787158/)での三上春海さんの一首評を読みました。
夕暮れがもうすぐ終わる対岸に雪柳ふっくらとかがやく(『Bootleg』)
という歌について丁寧に読みとかれています。
そこではじめて、丁寧に読むべき歌たちなのだな、と思いました。
また葉ね文庫で出会った方が土岐さんの歌に対して「言葉のクリティカルな部分を削って削って削った末に残ったことば」と言っていました。
歌集『Bootleg』を読むのに私は30分もかかりませんでした。
『Bootleg』は教科書に載っている数学の公式のようなもので、ざっと見るには時間がかからないけれど、読もうと思ったら永遠に読んでいられる短歌だなと思いました。
けれど、これが羅列だって言われたら羅列に見えてしまう、読み解こうとしないと読めない短歌だと思いました。
言葉の羅列としてみた美しさも、読み解いたときに気づく構造の美しさも、二段階での魅力がある歌集だと思いました。
いくつか歌を挙げます。見たときに怖いとかびっくりとかの気持ちが先行した歌は「!」、好きだなの気持ちが先行した歌は「○」で印をしました。
! まっさらなノートのような思い出が音もなく降りこぼれる僕に
これは歌集の一番最初の歌です。最後の「僕に」にびっくりして思わず立ち止まってしまった歌です。
私はここで「夜に」が来ると思っていたのです。それが「僕に」が来たのですごく混乱しました。なんでかと言われたら答えにくいのですが、「思い出」は個人的なもの(自分固有なもの)だと思っていたので、さらに「僕」がかぶせられることで、いままでの「思い出」がどこにあったのか急にわからなくなって、どこから降りこぼれるのか、それも、僕に降りこぼれるもその思い出は「まっさらなノートのよう」なんですよね。
「降りこぼれる」という語から救いのような気持ちを持ったのですが。
「まっさらなノート」(=白)という語は、(原稿が)真っ白とか、病院とか、圧迫感があるワードに思えてきました。
でも、「まっさらなノート」は私はやっぱり希望なんじゃないかなと思います。
これから、現国のノートにも、数学のノートにも、日記にもなれる、たくさんの可能性を秘めた枠組みとしての「まっさらなノート」。
この「まっさらなノート」に≒でつながれる「思い出」も、枠組みなのかなと思います。
例えば、友達と海へ行ったとして、その「思い出」はいわば「まっさらなノート」で、
その友達があのとき裏で悪口を言っていたと後から知ったら、悪い思い出に、
その友達と後ほど付き合って、懐かしい思い出として振り返ったら、良い思い出に。
どんな思い出にも展化できる可能性をもった枠組みとしての「思い出」なのかなと思います。
ノートは書き込むときにかりかり音がするけれど、記憶が更新されて書き込まれていくときに音はなくて、それが「僕」の頭の中で静かに行われている。
僕は一人で静かな部屋にいるイメージで読みました。
書かれているより超えて読んでいる気がしますが、なんにせよ、一首目としてぴったりな歌だなぁと思いました。
○ 歩いたらそこまで行けるものとしてたとえば宇宙センターがある
この歌、批評会で聞くまでずっと宇宙にあるほうの宇宙センターだと思っていたんですが、宇宙にあるほうは宇宙ステーションって言うんですね。
「種子島」とか具体的な地名を詠みこまないところに「言葉を削って削って削る」ところが現れているんでしょうか。
「種子島」というワードを入れると、その気候とか、環境とか、鉄砲のこととか、いろんな情報や歴史を引っ張って来ちゃうからかなーと思いました。
この歌は韻律も音も漢字とひらがなカタカナのバランスもすごく好きな歌でした。
○ ようこそ、新しい家へ。両耳に鈴の入っているぬいぐるみ
批評会で、「これは赤ちゃんあやすようのおもちゃ」というような発言がありました。
前半の「ようこそ、新しい家へ。」は本来ならセリフ括弧(「」)に入るものなのかなと思いました。あきらかに話し言葉すぎるというか、呼びかけの言葉らしすぎる。
私はこの歌をぬいぐるみに対する呼びかけだと取りました。
新しい家に、一番にぬいぐるみが入っていくことはないだろうから、きっとだれか人間が最初に入り、いろいろ整えて、さあやっとぬいぐるみ、きみの番だよ。と呼びかける歌だと想像しました。
この呼びかけ、すごく音声的で、多分発声されたのだろうと思います。
ぬいぐるみを持っている人と、呼びかけている人の二人がいると思います。
呼びかけている人は、ぬいぐるみに呼びかけている体を取りながら、ぬいぐるみを抱いている人に呼びかけているのだと思います。
新居へ移ることができるのはある程度大人で、本気でぬいぐるみに呼びかけているわけではないのです。
しかも、肝心のぬいぐるみは両耳に鈴が入っていて、きっとこの呼びかけは聞こえていないのです。
人間たちのあたたかいやり取りのなかで、どこか置いてけぼりのぬいぐるみが悲しい歌だと思いました。
! 帰るときかなり明るくなっているけやき並木をふたたび歩く
「帰る」という語でぱっと思い浮かべるのは夕方か、夜です。しかしこの歌では、道は「かなり明るくなっている」。
この歌を朝帰りと取る人もいましたが、私は夜だと思います。
例えばイルミネーションだったり、ライトアップだったり、街灯だったりが点灯しているから、行きに通るときより「かなり明るくなっている」のではないでしょうか。
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語り出したら止まらないような、とても批評会向きの、というか批評会で読まれる前提の歌集だと思いました。
さきほど教科書に載っている公式のよう、と書きましたが、「Bootleg」が教科書らしいと思った大きな特徴があります。
批評会で指摘されて知りましたが、収録歌が200首くらいと少ないらしいです。そのことによって、すごく歌がどこにあるか覚えやすい。
何回も批評会中引用される歌が、本のどこに載っているか大体分かる。
他の人の発言に合わせてみなが迷いなくページを捲っている様子が、授業っぽかったです。
私はすごくこの歌たちの脳内再現が難しかったのですが、身に沁みついたらすらすら暗唱できるのでしょうか。
著者近影がないこと、土岐さん自身が結社に入っていないこと、『Bootleg』という(会場発言を借りるなら、歌集をあらわすことを避けるような)タイトル、表紙の絵の立っているような屈んでいるようなもたれかかっているような絶妙な姿勢。
それらすべてが(神経質なまでに?) 言い当てる、言葉で現実をえぐりだすことを避けた技法に思えてきます。
(このへんはきっと田中ましろさんの仰っていた単語的ストレスフリーや、韻律的ストレスフリーに加えてのストレスフリー要素だと思います。)
(このストレスというのは、読者にかかるものではなくて、タイトルとか、歌とか、単語とか、そういうものにかかる重さとしてのストレスという意味で使いました)
田中ましろさんの項目4で説明されていた、季節の移り変わりで、
途中の冬、春、夏、春、夏、秋の並びを田中ましろさんは「歪み」と表現されましたが、
ここは詠われなかった秋冬が挟まっていただけで、歪みではないと思いました。
言いたいことがうまくまとまらないですが、『Bootleg』は何度も読み返してしまうようなふしぎな歌集でした。
三上さんのブログを読まなかったら批評会に応募しなかっただろうし、批評会に応募しなかったらきっとちゃんと読み解くことはしなかったと思います。
ちゃんと出会えてよかったです。
一番好きな歌は、
あきらかにちょっとおかしい看板を広い通りに出しているカフェ
この歌もすごく胸になにか残る、「好き」という気持ち以上にもっと深く読めるな、と思わせる魅力がある歌だと勝手に思っています。
なんと歌集にサインまでしてもらった一首です。ありがとうございました。
纏まらないので寝ます。