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走泥社再考展への再訪

4月に泉屋博古館とセットで菊池寛実記念智美術館に行き、走泥社再考展を見た。この展示は前期に1, 2章、後期に3章を展示するという変わった構成になっていて、少し安くなる2回券も販売されていた。もちろん後期も見る気満々でいたのに気づいたら会期末になっていて慌てつつ、今週なんとか行くことができたので今回も感想を書いてみたい。

↓前回行ったときの感想はこちら

前にも書いたようにこの美術館は18時までやっているので仕事帰りに寄る余地があるのでありがたい。仕事用のかばんにいい加減に突っ込んでおいたので少しシワの寄った2回券を左手に、美術館のポイントカードを右手に握りしめてうきうきと受付に向かった。

受付横の螺旋階段を下りていくと、踊り場に作品が出現した。6つの水道らしきものだけど蛇口があっちこっちを向いているし、左にいくにつれ蛇口が短くなって最後には落ちてしまっている。公害をテーマにした作品のようだ。最初は間抜けで可愛らしいようにも見えたが、ちょっと怖い作品かもしれない。

里中英人 シリーズ:公害アレルギーⅠ-Ⅵ

そして階段を下りきったらなんか見覚えのある作品が出現して、それは樂翠亭美術館の所蔵品だった。私の中では走泥社といえば樂翠亭なので嬉しい。写真だとだいぶ白っぽく見えるが、薄く水色がかっていてきれいである。

鈴木治 縞の立像
5年前の樂翠亭美術館の展示風景(走泥社作品の写真は見当たらなかった)

ところで今回の展示である第3章は、1964年の「現代国際陶芸展」以降の走泥社の作品で構成されている。海外の作品に衝撃を受けつつ、それまでのように強いて「前衛」を主張する必要がなくなり個々人の表現を成熟させた時期とのことだ。尖っていようとするというより自然体で好き勝手やるようになったという感じだろうか。第1章では花器としての作品、第2章ではオブジェ陶としての発展が紹介されていた。オブジェ陶の進化した形が今回の展示作品たちなのだろう。

次の作品は直方体の中程に割れ目ができてつぶつぶしたものが溢れようとしている。無機質の中に有機物っぽいものが覗いていることで微妙な不気味さがあり、なんとなく恩田陸っぽいなと思った。

川上力三 偽証

こちらも同じ作者によるもので、こちらは外身も有機物っぽいのと、中身が円柱で伸びてきそうな感じがあるので、今にも出てきそうでやはり不気味さがある。

川上力三 荒法師

次の作品は直線と曲線の組み合わせが印象的だ。曲線の柔らかさに対してすっきりとした直線が潔い。同じ作者が2年後に作ったホットケーキは、ホットケーキにナイフを入れたときの反発する感じがまさにそのまま表現されていて、弾力を感じさせる。表面の焼き目のさらさらした感じと、縁のほうについたバターのてかてかがリアリティを増している。

林康夫 作品69-3
林康夫 ホットケーキ

次の作品はどうしても卵を収める容れ物にしか見えなかった。卵並べたい…。

熊倉順吉 暦日

八木一夫の作品は本を象ったものがいくつかあった。一つは文字がびっしりと書かれているのに靄がかかってほとんどが読めなくなっており、中心にある眼鏡がNOを示している。こちらが読むことを拒否している本、ということだろうか。

八木一夫 ノー

こちらは1頁が風にそよいでいるようだ。破れも風を感じさせ、陶の重さを失っていると言える。

八木一夫 頁1

縞の立像と同じ作者、鈴木治による馬は、こんなにも抽象化されているのになぜか生きた感じがあって可愛さを感じさせる。控えめに表現された尻尾も愛らしい。

鈴木治 馬

ペガサスもあった。四角い胴体に凹で顔の部分が表現されるという、この作者に特徴的な作品だ。よく見ると右側に耳や羽が小さくついていて、確かにペガサスであるということが分かる。具体と抽象の間を行く表現がなんとも面白い。

鈴木治 天馬横転

次の作品は土に埋まった急須だと思う。岡田淳のこそあどの森シリーズを真っ先に思い出した。持ち手は木のようにも感じさせ、思わず持ってみたくなる。注ぎ口の奥は小さい穴が空いていたり、しっかり急須だ。左側にざっとかけられた釉薬の感じもきれいだ。

近藤清次 作品

今回も来てよかったと思わせる作品群だった。具体的な対象物を象った作品は、なぜ陶芸で表現する必要があるのか分からないけど、分からないからこそわくわくさせるものがある。どこまで抽象化するかというところもポイントで、抽象化された中に残る具体を見つける楽しさもある。

前期・後期にわたって走泥社を紹介してくれてとてもよい展示だった。菊池寛実記念智美術館はこの展示が終わったらしばらく閉館するようだが、次の展示も楽しみである。

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