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優しくなんかない
―辛辣ですね
友人と会話のラリーをしていて言われてハッとする。
そうだ。私は辛辣な人だ。
優しい人だと。よく言われる。呪いだと思うこともある。そんなふうに言われたら優しくない私はどこへ行ったらいいのさ。優しくなんかねえし。
優しいんじゃない。優しくできるだけだ。職業病でもある。
一般の社会は似たような小集団が自然と集まりできていると思う。偏差値や学歴、親の収入でクラス分けされた集団。育ちにも経験にも言葉にも共通項が多い集団。だから共通の価値観や言語を持つことも比較的容易だ。
障害を持った人の集団内は多様性に満ちていて、家族の社会的な地位や収入はもちろんのこと、一口にノンバーバルなコミニケーションといっても、生まれつきの知的な障害で言語を話さないお子さんもおられるし、公認会計士をなさっていて脳血管障害で言葉を失った方もおられる。
違いが大きくレンジが広い。障害の源流の異なるお二人に対して同じやり方でコミニケーションができるわけがないし、変わるのは私の側のコミニケーション方法だ。お一人お一人圧倒的に違っていて、一つの物差しで測って大きいとか小さいなんて言えることが、まず、ない。
実際にコミニケーションが成立するのは簡単ではないし一朝一夕にできることでもない。時間をかけて信頼関係を横糸に編むものだと思っている。それは支援職の生命線で、ちょっと勉強すれば社会福祉の教科書のイロハのイみたいなものだから、別に自慢するものでも何でもない。
ただ、一日8時間年間200日以上×20年以上この仕事についてきたから、プライベートでも無意識レベルで相手の目盛りに合わせることは自分にとって容易で、(だって目盛り自在に動かせなかったら仕事になんねえし!)相手にとっては常にコンフォトゾーンで会話が展開するから、私を優しいと感じてくれるのだろうと思う。
もう一つは言葉の刀を振りぬいて相手を傷つけてしまった深い反省から伝家の宝刀は、ちょっとやそっとじゃ抜かないように鞘に納めることを誓っているから。ヤルときは本気の時だけ。
ところが苦笑、実は、私は相手を論破したり、正論で責めたり、矛盾をついて嘘を白日の下にさらしたり、ぐうの音が出ないほど追い詰めるような好戦的な人間でもあった。特に若いころは。頭に血が上ってドライブかかってくると脂がのるというか、面白いように論理が展開していくのにまかせて、相手を黙らせては口喧嘩というか、議論に勝ったと思い込んでいた。
三島の安田講堂の論争とか見て、誤解しちゃったんだよね。議論の本質を。
愚かで、嫌な奴だ。今思うと。
だからこの仕事に就いた当初はカルチャーショックだったし、面食らった苦笑。合意を形成するとは、正しさを証明することじゃなくて、異なる意見をすり合わせることであって、パワーで他をねじ伏せるようなことでもないと思うようになったし、さらに相手をバイアスかけずにジャッジせずに受け止めることも職業として鎧の様に身につけていった
仕事ではよいのだと思うけど
プライベートでもその癖が抜けなくて
自分の辛辣さや、斜に構えた見方が好きなことがナリを潜めてしまう
優しくするということは、相手を対等に見ていないという証左
支援者マインドの別バージョンの発露
自分の辛辣さの欠片も見せずに、爪を丸めた猫みたいに
ひたすら自分の優しさだけを前面に押し出す
相手にカスタマイズした偏ったコミニケーションを提供して
私は勝手にバランスを失う
私はそんな優しい人間じゃない。そういわれたら、ワガママいえなくなるじゃない!
頼まれてないのに勝手にやって勝手に自爆してるんだけどね笑
なんでこんな言わなくてもいいことを書いているかというと
自分がなんだかいい人みたいに自分が書きすぎて
自分がコッパズカシクなってきたから笑
辛辣ですね。と言われてハッとしたのは、その友人には遠慮なく辛辣さを見せていたことに気づいたから。そして見せない理由にも自分で気づいたから。
辛辣な自分にもスペースを空けてあげようと思った蒸し暑い長月の夜に