同床異夢
寺山修司に、ひとつベッドに眠る恋するふたりも違う夢を見て眠る というような詩があったと記憶していて
ああ、残酷だなと思った
この詩は頭の片隅にいつもあって
若かりし日々
ノボセる私を冷ややかに見つめていた
ふたりで同じ景色を見ても
ふたりは別の景色を見てる
それは同時に同場面を切り取り
脳に視覚情報を伝達しても
その場面に含まれる視覚以外の、蝉の音、雨上がりの湿り気、鳥の囀り、雨に冷やされて僅かにヒンヤリした空気感、木立を揺らす風等々…膨大な情報をどう処理するかは
その人ひとりひとりの感性次第、それまでの人生どう生きてきたかの経験値次第だから
だから、一口に、わかるといったって
それは限定的で、部分的で
数学の相似みたいに、証明可能な、びたーと2つが重なり合うイメージはありえない
でも、恋するふたりの体がピタッと重なったときには、ふたりの間は真空、何もなくて、半紙一枚薄皮饅頭の薄皮一枚だって挟まってないと思う笑
全く同じ景色をみることはできない
私は私の、あなたはあなたのフレームと切り口で、世界をみているから
見たいものしか見ないし
見たくないものにはピンボケ解像度は粗い
脳ミソから取ってくる意味づけの調味料のラインナップも、ガラムマサラにコリアンダー、カルダモンのエスニック派、味噌と醤油があればいいシンプル和風、いやマヨネーズがあれば事足りるマヨラーに、薄味、濃口、バリエーションは無限大、つまり人によって全部全く違うんだ
恋から軸足離してみても それは家族でも 同僚でも すべての対人の場面で
私とあなたは全く違うひとりの唯一無二の存在ですというスタンスは、時折私の脳天をかち割り、目を覚ましてくれる
それでもやっぱり
この雨上がりの美しい空は
ひとりでなく ふたりで眺めたいと思うのは何故だろう
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