段差にご注意ください
墓参りに地下鉄に乗ったとき
ホームドアが開いで車両に乗り込むと
扉の前に張り付くようにして
電動車いすのオジサンがスタンバっていた
介助者は居なくて一人で乗車していた
福祉施設勤務ウン十年の赤毛だ
何かありましたらご用命をと勝手に責任感で
空いた席に着く
どこの駅で降りるのかな
多分乗車の際に駅員に降車駅を伝えてあって
駅に着いたら駅員さんがハンディスロープ抱えて待ち構えていて降車を手伝うんだろうな
そん時手が足りない様だったら何かお手伝いしたほうがいいのかな
などど勝手によくある車椅子の人が乗降車するときをシュミレーションして地下鉄は真っ黒いトンネルをひた走る
何駅か過ぎて、扉が開き、車椅子のオジサンが
突然レバーを操作してガッタンゴットンと
豆タンクみたいに
段差を乗り越え電車を降りてホームの雑踏へと
ウイーンと颯爽と消えていく
え?え?
自力で降りるんか?
自分の固定観念が車椅子の人は
介助者の力を借りて乗り降りするもの
イコール一人では乗降できない人
イコールその動作にどんなに時間がかかっても
そうでない人は数歩でそのギャップを数秒で跨ぐとしても
そうでない人はずっと静かにお行儀よく待つべきで
または善意を発露して何らかの手を貸して
そうやって障害のある人は守られたり助けられる存在だと
ハナッカラ思い込んでいた自分に唖然としてしまい
そうか
リチウム電池も進化して小型化して電動自転車もパワフルになっているし
同じように電動車いすのバッテリーも小型化して四駆のランクルみたいに段差を乗り越えて行けるようになっておるのか
それに車椅子のボディも新素材を使用して軽量化も進んでいると聞いたこともあった
新しい技術やテクノロジーで
段差を自走できる車椅子が可能になれば
誰が好き好んで衆人環視の中で手伝われる車椅子の私でいたいと思うだろうか
さっと乗り降りできる方が
誰かにスミマセンスミマセン
またはありがとうございますだったとしても
私達にとっては自動に近いような行為を
いちいち誰かに断って前に進まなければならない不自由をその人に移動自由の代わりに課しているのだと
さっと風のように当然でしょと無言で
電車を降りていったオジサンの後ろ姿を
ホームドアの向こうに見えなくなるまで見送る日に
勿論駅員さんのヘルプやスロープがあってよいけれど
それが当たり前なのかと
もっと別の世界線もあって
当事者だったらどう感じるのだろうと
赤毛の小せえ親切心と引き換えに
いつもしてもらう人の窮屈さに気づかないでいたのではないかと
勝手に恥ずかしくなった記憶を書く