‘プロ’の歌声に聞き惚れて ―戦後歌謡曲黎明期のスターたち
戦後、昭和20年代から30年代前半にかけての日本。
多くが戦禍により焼損・焼失し‘再度’の普及となるラジオや、徐々に営業を再開した映画館での鑑賞体験を通じて、徐々に生活の中に‘音’が戻ってきた時代。音質という意味では決してきれいな音ではなかったかもしれませんが、それぞれのスピーカーから聞こえる優雅な歌声に、人々はひとときの娯楽を求めました。今回は、そんな戦後すぐの時代、歌謡曲が黄金期を迎えるころのエピソードです。
戦前から活躍し、戦後もその初期から『長崎の鐘』『青い山脈』などヒット曲を連発、時を経て平成4(1992)年には国民栄誉賞を受賞することとなる藤山一郎。昭和21(1946)年から放送を開始したNHKラジオ『ラジオ歌謡』からデビューし、『白い花の咲く頃』『高原列車は行く』などの代表曲を残した岡本敦郎。藤山は東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の首席、岡本は武蔵野音楽大学声楽科、というように、学生時代に専門的に勉強した成果を遺憾なく発揮した結果の大ヒットでした。
話題に上った『イヨマンテの夜』や、今でも全国高校野球大会歌として歌い継がれる『栄冠は君に輝く』などの代表曲を持つ伊藤は帝国音楽学校(戦禍で焼失・廃校)卒。「個性が出てきた」と記憶されている田畑は貧しさのため専門的な学習は叶いませんでしたが、デビュー前からコンテストで優勝するなど、地道な練習の成果もあり正統派歌手としての素質は十分、持ち合わせていました。
「先生」と呼ばれるような作詞家や作曲家のサポートを受けながら、「練りに練った」声を一番の武器にする歌手たち。対照的に、衣装やパフォーマンスなど、歌唱力以外の部分も武器にできることを発見した現代的なポップアーティストと、それを武器とすることを快く受け入れる現代的なリスナーたち。「音」の世界がこのように多様化した現代だからこそ、昭和を生きた人たちは、「練りに練った」声を武器とする昭和歌謡の源流を確かに残す演歌に、心を打たれるのかもしれません。